EXシナリオ



「それじゃあ行ってくるけど」

 ひとつ大きな荷物を持ち、ジゼルと一緒に玄関に立ったゼルが、このたび家に残ることになったヴァンを振り向いて言った。

「あんまり無茶なことはなしないでよ?」

「信用ないなー」茶化すように笑ったヴァンが肩を竦めて言った。「俺がそんな命知らずに見えるか?」

「君のことだからそんな心配はしてないよ」ゼルはさらりと言った。「僕が言ってるのは、『相手』に下手な挑発をしかけたりしないかどうかってこと」

「……同意するわ、ゼルさん」ジゼルが早くも疲れた顔で溜息を吐いた。「ヴァン。くれぐれも私たちが居ないからって無茶はしないでね。危ないと思ったらすぐオニキス先生のところへ行くこと! どんな犯罪者だって、証拠が無いままじゃ一般人と変わらないわ。でもあなたは有名人、その違い、解ってるでしょ?」

「わかってるって」

『ほんとにぃ?』

 即答に等しく返答したヴァンに、ゼルとジゼルからまったく同じ疑問が発せられた。名前が似通ってしまったのは完全に偶然であるが、揃いの赤い瞳や黒い翼、ヴァンへの態度のみに焦点を絞れば、この二人はまるで親子か兄妹のように息が合う。

 こうしたやり取りだけを見れば、こいつらがジゼルの父親を殺した男と、ゼルに父親を殺された娘にはとても見えない。ついでに言えばヴァンも、このゼルには唯一無二の親友を殺されているのだが。

「ほらほら二人とも」ヴァンは母親のように手を叩いて言った。「もたもたしてると出港に間に合わないぞ。鬼龍の港じゃシノワが待っててくれてるはずだから、彼女にはヨロシク言っといてくれよな」

「ちゃんとお土産持って帰ってくるからね」ジゼルが言った。

「ああ。ついでに遺跡調査の依頼でも受けてみるといいぜ」ヴァンは簡単なクエストでも勧めるように言った。「オーパーツ級のお宝に期待してる」

 他所行きの可愛らしいドレスにポーチを引っ掛けたジゼルが陽光の下へ駆け出していくのを見送って、続いて彼女の着替えや私物まで引き受けたゼルが歩み出ていく。やれやれとドアを閉めようとしたヴァンの鼻先に、ふと踵を返したゼルが顔を寄せてきた。

「ヴァン」

「うん?」

「君を殺すのは僕だからね」

「……わかってるって」まるで愛してるよと言われたかのように甘く笑んで見せたヴァンは、同じく顔を近付けて囁きかけた。「ちゃんと終わって帰って来たら、ご褒美をやらなくちゃな」

「ふふ、期待してるよ」

 ぱたん。最後の確認を終えて相手が引いたのを確かめ、ヴァンは家の扉を閉めた。


 天魔国王アーサーが曰く『偉大なる冒険王ヴァン・クロウ』は現在、ストーカーなるものの脅威に晒されている。

 天魔国にのみならず、今や遠く離れた多種族の住まう大陸はもちろん、最近発見されたばかりの新大陸の原住民にまで名の知れた彼のこと、ほんのちょっとお近付きになりたいと考える者は老若男女を問わず星の数ほど居るし、その逆として彼の功績や知名度を妬む者の悪意も巨万と集まるもの。見た目こそ十代の若者だが、実年齢はとうに三十も過ぎてしまったヴァン自身はそういうことに慣れていたし、陰口や嫌がらせの類にもそこそこの耐性があり、また下心をもって寄ってくる阿呆のあしらい方も心得ていた。

 だが、それはあくまでヴァン個人に悪意を向けてくる者への対処法にすぎない。彼の家族や友人、知人までも『同一視』のレベルで混同してくる相手なら話は変わってくる。

 とある日、ジゼルと中央市場まで買物に出たヴァンは、荷物を片手に帰宅して玄関ノブを掴んだ瞬間、異変に気付いた。

 ぬるりとした感触。視線を落としてみれば、手のひらを濡らし、指をトロリと伝い落ちていくのは白っぽい粘液。さすがに耐性があるとはいえ、何の予告も心の準備もなくいきなり見知らぬ誰ぞの精液を掴まされたとあっては、いくらヴァンといえど嫌悪感は否めなかった。

「どうしたの、ヴァン?」

「ああ、ちょっと静電気がな」

 何も知らないジゼルが首を傾げてくるのを何食わぬ顔で軽く流したものの、そのとき着けていたグローブは早々に捨てたし、ジゼルが食事の準備にかかってる間に掃除させられたのも、悪い意味でなかなかにクるものがあった。

 それまでにも何度か、穴の開きそうな強烈な視線を感じたことはあった。それだけならよくあることで済ませられたが、家の前をうろつく──時には張り込みも同然に門前から微動だにしない──、同一人物と思しき不審者を見かける回数も増えていたところだ。ヴァンのみが標的ならまだしも、ジゼルにまで先日味わった悪意を経験させるわけにはいかない……彼は鬼龍の友人であるシノワに、しばらくジゼルを預かってくれないかと交渉した。

 彼女は二つ返事でOKしてくれ、ジゼルも鬼龍の古代遺跡を直に見る機会だと喜んだ。そんな彼女らに、自分に匹敵する実力者──人格にめちゃくちゃ難はあるけれど──ゼルを護衛につけて、たったいま、送り出したところなのだった。

 それにしたってゼルとジゼルの洞察力には参ったものだ。ヴァンは二人に余計な詮索や気遣いをさせないために、自分がそういった類の被害に遭っていることをはっきり伝えていたものの、むしろ犯人の身の安全が心配されている。独りになって『自由』が利くようになったヴァンがどんな手段をもって犯人に迫るか、あるいは報復を行なうか、だいたいの予測がついているというわけだ。

 あの二人からしてみれば、ヴァンを選んでしまった犯人こそが不運の持ち主、憐れむべき対象なのだ。身内を手元から送り出し、ヴァンが独りになったことが好機であるのは相手も同じ。これからストーキング内容が苛烈になっていく可能性も否めないというのに、まったくあいつら、俺だってちょっとは気分悪いんだぞ。もう少しくらいこっちの身の安全を心配してくれたっていいじゃないか──。

『君を殺すのは僕だからね』

 ふと、ゼルの言葉が耳元によみがえる。

 ぞくりと背筋が逆立つほど心地好いそれ。当たり前だろ、決まってるじゃないか──そのくらい答えてキスしてやれば良かったなと考えながら、彼は手元のグラスで氷の崩れるカランと涼やかな音を聞いて、自分が放心していたことに気付いた。

 そこは通い慣れた街の酒場、見慣れた木造の、賑やかなホールだ。

「おう、ヴァン」店主の男が、我にかえった彼の仕草に気付いて言った。「今朝方、ジゼルちゃんが鬼龍へ旅行に出たって?」

「ああ、可愛い子には旅をさせろってね」ヴァンは言った。「せっかくライセンスを取ったんだから、新大陸ばっかりじゃなくて、もっと色んな国の、色んな文化に触れてほしいのさ」

「上手いこと言うじゃねえか。どうせ女を連れ込むスキがほしかっただけだろぉ?」

「わかってるんなら、誰かイイ女、紹介してくれてもいいんだぜ?」にやりと悪戯に笑って、ヴァンは店主の軽口に乗ってやった。「ま、もっとも、俺が満足できるようなのがそこらへんに居るとは思えないけどね」

「それが居るかもしれねえんだよなあ」

「へえ?」

 水割りグラスを丁寧に空拭きしながら、店主が少しばかり勿体付けて放った言葉を、ヴァンは聞き逃さなかった。さすがに付き合いが長いだけあって、この男もゼルとは違う意味で、彼の気を引くための言い回しや言葉の使い方をよく知っている。

「ジゼルちゃんの出立と入れ替わりの頃かな? 西の第二波止場で、見慣れねえ天魔人を見たってハナシを聞いてな」店主は言った。「金髪によく似合う赤の法衣を着た、黒翼の魔道士だが、一目見たら忘れられねえ長身の美形だってよ?」

「……え?」

 しなだれかかるような頬杖から頭をもたげ、ヴァンはたったいま目が覚めたような顔をしていた。先を促すのでもなく、ただその『ハナシ』を聞いて驚いている様子は男が予測した彼のどんな反応とも違っている。どうしたのかと思いながらも、店主はとりあえず最後まで話を続けてみることにした。

「遠目だったから、男か女かははっきりしなかったらしいんだけどな。目立つ風貌だから有名になってそうなもんだが、誰もそんなヤツは見た覚えがねえってんでよ。ちょっとミステリアスな噂話じゃねえか? 日頃の冒険に疲れたんなら、たまにはそういうモンを追ってみてもいいんじゃねえかい」

「……ああ」まだどこか信じられないように、ヴァンはぽつりと同意の言葉をもらす。否、それは感嘆の吐息だったのかもしれない。「ああ…すげえいい話を聞かせてもらったよ。恩に着たいくらいだ」

 言うが早いかヴァンは立ち上がり、ごちそうさんといつもの挨拶を残して出ていった。ジゼルのいない家に帰るにはまだ早い時間だったが、さっきの話に突き動かされ、街をぶらついて帰ろうというのなら、彼にしては随分と浮付いたものだ。今でもオニキスから飲酒については注意を促されている彼がそれほど飲まなかったグラスを片付けようとした店主は、ふと料金にしては多めのコインが残されていることに気付いた。

 あいつの性癖はわからんなあ──。気前のよいチップを有難く受け取りながらも、店主は首を捻るばかりなのだった。


 二大蛇竜神の変が発生した折にヴァンと行動を共にした、神を名乗る赤き魔道士メビウス。あいつのことは、あいつが去った今となってヴァン以外の誰の記憶にも残っていない。あいつはずっとこの街に滞在していたし、あの酒場にだって行ったことがあるのに、マスターも、しばらく一緒に暮らしたはずのジゼルですらも彼のことを覚えていなかった。

 ただでさえ精神を病んだことがある──それは現在もなお進行形で治療中なのだが──過去から変な目で見られるのもシャクなもんで、この記憶は自分にだけ認められた特権のようなものなのだと思って、ヴァンは誰に話すこともなく自分の中にしまってあった。サイズが合わなくなってもう着なくなった服をそうするように、大切に。

 でも唐突に、記憶の扉は現実に向けて開かれた。

 自分以外に、あいつを見た者が現れたという。

 あいつが今、この天魔の国に居るという。

 これで何かの見間違いか別人であったなら、残念ながらこの噂話の発信源となった人物は理不尽な鉄拳制裁を受けることになるだろう──という勢いで、彼はその姿を追い求めて街を駆け抜けた。途中で足が疲れてしまったから、純白の翼をはためかせ上空へと舞い上がる。

 第二波止場は天魔大陸の西端、新大陸への玄関口とになっている場所だ。しかしこの街からは乗り物があれば数時間もかからない距離である。となれば、あいつはもうこの街に来ていると見ていいだろう。

 何の確約もない。でもヴァンは、あいつが自分に会いに来たのだと確信していた。あいつは、ヴァンが自分のもとへ来るのを待っている。ならば家には居るまい。もっと違う場所だ。もっと二人の記憶に共通した、もっと印象の強い場所にいる。きっと。


 そう──海だ。


 夜も更けて、国内定期便も最後の一本がしばらく前に出港して静まり返った港には、波が打ち寄せ潮風が吹き抜けるのみだ。

 闇に溶け込めそうな昏い赤をまとうのに、眩いばかりの長い金髪がやたらに目立つ。強い風になぶられ乱れたそれを、手首に朱の組紐を結わえた手で軽く整えたその男が、背後に降りてきた羽ばたきの音に気付いて振り向いた。

 赤と青。対照的な二対の目が視線を合わせる。

「随分と遅かったな、帰ろうかと思っ──」

 前連絡もしなかったくせにナメたことを言いかけたメビウスに、ヴァンがとった行動はあまりにも早かった。

 海に突き落とす勢いで胸に飛び込んだかと思えば、驚いた相手に何を言わせる間も与えず頭をとっ捕まえて唇にキスをした。衝動に任せて滑り込ませた舌が、遠慮も都合もへったくれもなく絡みついて吸い付く。

 これでは抵抗紛いに噛み付かれたって文句を言えないのに、拒絶はされなかった。伸びてきた手はヴァンを引き剥がすのではなく、メビウスより少し背丈の足りない彼の頭を支えてくれて、逃げられるかと思った舌が応えてくる。不意にヴァンは、自分がずっと息を止めていたことを思い出して、急激な息苦しさで水面へ浮上するように離れた。

 どっと息を吐き、思いきり吸い込む。何といってもこいつは、街中を駆け回り飛び回ってメビウスを探していたのだ。到着時にすら充分すぎるほど息は乱れていたのに、それを停めてまでキスを優先しようとは見上げた根性である。

「大丈夫か?」心配しているというより、呆れ切った言葉が降ってくる。

「…あんたにまた会えたら、もう一回するって、決めてたんだ」やっと息が整い、ヴァンは言った。あのときは通り過ぎただけの感触を、はっきりと確かめたかった。反応を見たかった。味を、匂いを、吐息を──。

「私は舌まで突っ込んでないぞ」

「これは俺の独断専行」

「……そんなに急くこともあるまいに」

 鋭い声に含まれていた呆れが、棘を失う。ふっと撫でるように柔らかくなったかと思えば、今度はメビウスのほうが身を屈めてヴァンに口付けをした。小鳥が啄むようなごく軽い接触だったけれど、それは確かに、メビウス自らの意思による行為だった。

「こうしておまえに会うために来てやったのだ。……おまえの好きにすればいい」

 先の最中に応えられた時からもしやと思っていたが、改めてこうしてはっきりと許されるとやたらに嬉しくなる。ヴァンはこれが、酒場で寝こけている自分が見ている都合のいい夢ではないことを切に願っていた。



「それにしたって、こういうことがあると尽々思うね」

 自宅扉のノブに何も付着していないことを確かめるのがすっかりクセになってしまっている自分に若干の苛立ちを感じつつも、開いた扉の横へ退いたヴァンはメビウスを先に中へ通してやりながら言った。

「何がだ」

 完全に自宅へ戻ってきたかのように、手際よく廊下や室内のライトスイッチをパチパチと操作するメビウスの挙動を心地好く感じながら、ヴァンは溜息まじりに言った。

「いま俺、どっかの顔も知らないヘンタイ野郎にストーカーされてる」

「なんだ」そんなことか、と言わんばかりにメビウスは言った。「その程度のこと、おまえならどうとでもできるだろう」

「ホントは」あっはっは、と振り切った笑いでヴァンは腕を組んで言った。「完全に油断してるか怯えてるかに見せかけてソノ気にさせて、ここへ呼び込んで快楽の見返りに地獄へ叩き落としてやろうかと思ったんだけどさ」

「犯人との性交は大前提なのか……」

「ドアノブに精液ぶっかけるようなド変態だ、どんなプレイするのか興味はあるね」

「一度殺されてしまえ」

 メビウスは斬り捨てるように言った。しかし残念ながら、この世には『馬鹿は死んでも治らない』という標識がある。

「ただそのへんは…」ヴァンはメビウスの呟きを無視した。「ジゼルとゼルにきっちり釘を刺されてる。犯人が特定できそうなら、下手に手を出さずに先生のとこへ行けってな」

「なるほど。それでこの家は今、おまえしかいないのだな」

「そういうこと。だから思うわけよ、絶好のチャンスと最悪のタイミングは同時に来るもんなんだなって」

「は」面白そうにメビウスは笑った。「犯人とヤれるチャンスと、私が戻ってきたタイミングが悪すぎたというわけか」

「逆だよ」心外だな、とばかりにヴァンはぴしゃりと言った。「あんたと蜜月を過ごせるチャンスと、犯人確保のタイミングが同時に来ちまったって言ってんの。あんたはもともと発言が皮肉っぽかったけど、俺にカラダを許そうって時にあんまりそういうこと言ってると、ひねくれる暇もないくらい喘がせるぞ」

「……。」

「そうそう、そういう素直な態度が好きだよ」

「……なんでおまえが抱く前提で話が進んでるんだ…」

 納得いかんぞ、と、納得いかなさげにぼやいている相手の呟きを、ヴァンは聞かなかったことにした。彼はもともと、自分に都合の悪いことは徹底的に無視する性分だ。

「ひとつ確認しておくが、犯人の狙いはアルスターの娘ではないのだな?」

 事件のことに話を戻してメビウスは言った。彼もヴァンの性格はよく知っていて、言及しても意味が無いことを理解している。

「俺も最初はそう思ったんだけどな」ヴァンは自室のドアを開いてふと立ち止まると、中を見なかったことにしたように閉めた。どうやら、いくらメビウスであっても、人を通せる程度にも片付けができていなかったらしい。

 基本的に、精液の件に然りこのテのストーカーは女につくものだ。そしてジゼルのような幼い少女に性的嗜好を感じる男も居ないことは無い。だからこそヴァンは、彼女と一緒の時に感じた嫌な視線を、最初はジゼルが変な男に狙われたのだと危惧していた。

 だが話を聞いたゼルは迷いなく「間違いなく君狙いだよ」と言ってきた。世の中の男がみんな自分と同じ性癖だと思うなよと釘を打ち込んだものの、彼の言葉は非常に残念な形で的中することになる。

 ヴァンの姿を収めた写真が、郵便受けに直で入っていたのだ。馴染みの酒場で知人と話しながら飲んでいる姿、適当に街をぶらついている様子、博物館で係員と仕事の話をしている光景──挙句の果てには、自宅自室でのゼルとのキスシーンまで。

 顔を覆って久しぶりに死にたくなっているヴァンの横で、それを覗き込んだゼルは「よく撮れてるねえ」などと完全に他人事だったが、これで犯人の狙いがジゼルではなくヴァンであることが確定した。

 ゼルとのキスシーンを撮られているなら、恐らくその後の展開だって見られていると思って間違いない。精液なんてその気になればどこででも手に入る以上、犯人が女である可能性がゼロとは言い切れないものの、ヴァンは、およそ犯人は男性嗜好の男性であり、ヴァンにそういった趣旨での接触を求めている──今でこそ、それをほのめかすだけで済んでいるようだが──と推測していた。

「『自分はおまえが男とヤレる男だと知っている』──」見せてもらった件の写真を眼前でヒラヒラさせながら、メビウスは通されたリビングのソファで言った。「好きに解釈できるだけ、無言のメッセージほど怖いものはないな。ドアノブに悪戯を仕掛けたのも、大方おまえに掴ませて反応を見たかったのだろう」

「勘弁してくれよ。俺おもいっきり嫌な顔したぞ」

「そんなタチの悪い悪戯に悦ぶ阿呆もそう居るまい。私ならその場で生体反応を追って挽肉にしているところだ」

「いいなそれ。俺に魔術教えてくれよ」

「おまえに魔術の素質はゼロだ。精神が物理世界に寄りすぎている」

「そこを何とかしろよ神様。あんたの血でも飲めば魔力が備わるとか無いのか」

「たかが人間が神羅神の血を啜ろうとは身の程知らずだな。口に入れるどころか手で受けることすらかなわないぞ」

「どうなんの?」

「神力の循環に耐え切れずに肉体が膨張して弾け飛ぶ」

「で、犯人の次の動向なんだけど」ヴァンは今の会話を完全になかったことにした。「あんたはどう見る?」

「『無言のメッセージ』と、『性的な嗜虐性のある悪戯』とくれば、そのうちおまえに近付いてくるだろうな。声を聞こうとするか、身体に触れてみようとするか、あるいは──」

「本当に俺とセックスするべく押し入ってくる、ってか」

「段階を踏んでいるだけ、まだ模範的な犯罪心理だがな」メビウスは写真を眺めながら教科書でも読むように言った。「世の中には全段階をすっ飛ばして、いきなり本人に直撃してくるド阿呆も居る」

「そんなやつ居るのかよ…」

「なんでこれが刺さらないんだ、神経を疑うぞ」

「なに? もしかして俺のこと言ってたか?」

 有り得ない、とばかりに言ったメビウスの手からひょいと写真を取り上げて、ヴァンは自分の服のポケットにしまった。どこかに置きっぱなしにして、失くしでもしたら大変なことだと思っているのが見て取れる。

 思い返せばヴァンは、自分の弱みを他人に見せることを嫌う節があった。ゼルとの情事を夢に見た自分の痴態をメビウスに見られた時の動揺具合にも然り、自分にそこそこ以上の自信を持ち、かつ自分を好く見せようと振る舞う『かっこつけの伊達男』という認識が似合う。

 だからこそ彼には、他人に『見せたい自分』と『見られたくない自分』の線引きがあり、件のストーカーは、後者に属するゼルとの関係を知られた厄介な相手、という振り分けになっているのだと推察できた。

 自分の冒険録で話題をかっさらうことに成功したとはいえ、ゼル・ガロンといえば、未だに泣く子も黙る、凶悪にして狂信的な殺人犯だ。本人は微塵も意識していないだろうが、サイコというよりシリアルキラーと呼ぶに相応しい。そんな、世間に向けては死んだことになっているゼルが生きていて、しかもヴァンと深い肉体関係を持つ恋仲だなんて、万一にも知られるわけにはいかない。これはヴァンの世間体という狭い話ではなく、『冒険王ヴァン・クロウ』という、天魔国が持つひとつの威信に関わる問題なのだ。

 称号だ階級だと自分の地位にも名誉にも無頓着とはいえ、さすがにそれが解らないほどヴァンはゼルに近くない。だから彼は早いうちに何とかするべく、そのための活動に『邪魔』なゼルとジゼルをここから追い出したのである。

「あんたが来てくれて助かるよ」ヴァンは言った。「危険も気兼ねも心配もなく、任せられることが多いからな」

 薄汚れた男の情欲にジゼルを巻き込むわけにはいかないし、ゼルではまず間違いなく余計な手を出して相手を殺してしまうだろうから。ヴァンが、自身で言う通り『気兼ねなく』頼ることができる人物と言えばメビウスくらいであろう。

「やれやれ」メビウスは言った。「手伝いに来てやったつもりは無かったが、これが片付かんとどうにもできんな。無上に面倒だが、仕方ない──」

「どうにもできないなんて、そんなことないさ」

 何を言い出したかと思えば、傍に居たヴァンが身を乗り出してのしかかってきた。メビウスの肩口に片手をかけ、ばさりとクッションの上に押し倒して視界を覆う。

「おい」メビウスは抗議した。「こんなことをしてる場合か、どこから犯人が見ているかも判らんのだぞ」

「いいじゃないか、見せてやろうぜ?」ヴァンは面白そうに言った。「コレでまた新しい写真が届くなら、見てみたいとも思うしな」

「理解できん」

「しなくていいよ。どうせ他人を完全に理解するなんて、できっこないんだから」

「心理学の話なんかどうでもいい!」

「そういうことじゃないよ」ヴァンは言った。……さっきまでの冗談めいた口調が消え、迫るような低さを帯びる。「わかるだろ?」

 推し測る間を置いて、メビウスは少し考え、理解する。ヴァン・クロウという一種狂人の精神構造ではなく、この眼前の男がいま企んでいることを。

 ヴァンはメビウスを利用しようとしている。自分に性的趣向を向け、異常な手段を用いてそれを示してやまぬ──そのうちそんな一線をも越えてくるであろう──変質者へ、意図的に新たな情報を与えようとしている。

 それは、ヴァンと関係を持っている人間がゼルだけではないということ。自分が抱かれるばかりの側ではないということ。『おまえ』には微塵の『分』も無いのだということを知らしめるための、『無言のメッセージ』だ。

 ストーキング行為の根底には、相手への強烈な独占欲や、錯誤的にして絶対的な相思相愛志向がある。行為のエスカレート方式が『模範的』な段階を踏んでいるというのなら、犯人の深層意識もこの例から外れまい。

 この夜を境に、ヴァンはこれまでの様子見を翻して攻勢に出ようとしている。彼はつい今しがたこの一件とメビウスの来訪に関連して『最悪のタイミング』という言葉を使ったが、実際のところはチャンス以外の何物でも無かったらしい。

「不本意だな…」自ら目を逸らし、メビウスはぽつりと言った。「……この上なく」

「意外とセンチメンタルなんだな」

 メビウスは答えなかった。視線を合わせ直すこともせず、否定も肯定もせず。会話の途切れる一瞬、しんと静まり返る室内で、ヴァンはどこからか強い視線を感じていた。

 感謝するぜストーカーのクソ野郎。見たいんならとことん見せてやるよ──。メビウスが一目でも視界に入れようものなら、全力で引かれていたこと請け合いの込み上げる笑みを隠せず、ヴァンは逸る身体の熱に任せて上着を脱ぎ捨てた。

 あんなにも欲しくてたまらなかった高嶺の花が、今ここにある。事件の進展のためにと取って付けた理由を信じて──いるかは明確には不明だが──、自分に身を委ねようとしている。こんな絶好のチャンスが他にあるものか。こいつの気が変わらないうちに、この件に乗じて俺のものにしてやる──。


「な、あんたってどんなプレイが好み?」

 メビウスの法衣は興味深い構造をしていた。

 魔術的な素質は無いと断言されてしまったヴァンであるが、それに関する知識ならば充分にある。相手の頬をさすり、クセはあるが指通りのいい柔らかな髪の感触を愉しみながら、彼は赤の襟を留めた紐の結び目が防護障壁の魔紋を形成していることに気付く。

 こりゃ鉄機の『銃』でも傷ひとつ付けられないな──。まるで封印ギミックでも解除するかのような気分でそれを解きながら、こいつが前にカカベルから一撃もらったことが随分とプライドに響いたのだろうと思えば少し可笑しい。

「私がそれを自分で答えると思ってるのか」

 アホか、とぶっきらぼうな言葉が投げ返される。もちろん思ってはいなかったが、万一にも答えてくれるかもしれない、というほのかな期待はどうしても捨てられない。

「ならいいよ。自分で探す」

 ヴァンはといえば、ゆっくりと飴玉でも融かしていくようなスローセックスを好む。絶頂の快感が何物にも代え難いのは確かだが、達するか否かのぎりぎりのところに意識が揺蕩う、もどかしさにも似た持続性も悪くない。緩やかに溺れていく快感をよく知っているから、ゼルに抱かれる時はもちろん、女を抱く時にもそのスタンスを崩したことは無い。

 だから今、そんなものを何もかもすっ飛ばしてこいつと繋がりたいなんて、そして思うさま揺さぶって一緒にぶっ壊れてしまいたいなんて衝動は長らく忘れていた。

 ああ、早く声を聞きたい。その目がどんな色に染まるのか、どんなふうにイッてくれるのか。何もかも曝け出させて、何もかも見ておきたかった。考えるだけで背筋がゾクゾクする期待に突き動かされるまま、ヴァンはメビウスの下肢に手を伸ばした。

 上着の結び目で呪印の解き方はもう判っていたから、ヴァンは至極普通に着衣を脱がせるのと変わらない動作で前を開いて適当なところまで引き下ろすと、彼の中心にすっと顔を寄せる。

「おい…、ッ」

 一呼吸の間、呼びかけてくる声がまるで催促のようで、そして位置の関係で、ついニヤつく表情を隠すことにも成功していたヴァンは感嘆の吐息と共に舌を伸ばし、それをねっとりとひと舐めした。

 さすがにここまで来て、まさかこうなるとは思っていなかった──わけはあるまい。だがタイミングの主導権が完全にヴァンにあったことで、誰の例にも外れない性感帯への愛撫を受けたメビウスの身体がびくんと跳ねる。

「んッ、ぐぅ」

 たまらず噛み潰した呻きのような声が漏れるのを聞き付け、ヴァンはちょっと目を上げながら言った。

「無理に声殺そうとするなよ、舌噛むぞ」

「よくもそんな無理難題を、平然と……ッひあっ」

 改めてヴァンがそれを口内に含むものだから、行き場のないメビウスの手がソファの布地を引っ掴むのが見える。そんなものに爪を立てるくらいなら、自分の頭でも掴んでいてほしいなと思った。

 舌と頬の内肉で緩く擦って様子を見ていると、控えめな呻きが上ずるのに合わせて、口の中にとろりとした蜜の味と確かな熱が滲みてくる。

 ああ、気持ちいいんだな。俺で感じてくれるんだ──それまでにも充分すぎるほど浮付いていた理性がぐらつく。思いっきりしゃぶりついたら、どんな反応をするだろう──。アレもコレもとやってみたいことが目白押しになっている頭の中を整理することもままならず、口内のそれを喉元近くまで引き込んで強めに吸い付いた。

「あっああぁ…っ!」

 口をつく声がはっきりと色を帯び、メビウスはヴァンの与える強弱に、もどかしげに身を捩る。おそらくぞっと腰から脳ミソまでナニカが突き抜けたことだろうが、それはヴァンも同じだった。

「おいクソガキ…ッ」初めて聞く、随分と品性のないその単語はヴァンに向けたものだろう。メビウスは抗議まじりに相手の頭を掴んで言った。「さっきから何を遊んでる、やるならさっさと済ませろっ」

 残念ながらそれは無理というものだ。口にものが入っているのをいいことに何も答えなかったヴァンは、口の端から滴らせた粘液を指に絡ませ、メビウスの内側へ侵入を試みる。

「うあっ!? あ、あ…!」

 びくっと身体を竦ませ、反射的に手がヴァンの髪束を掴む。渾身の蹴りが飛んで来なかったところを見るに嫌悪は感じていない。それを解ることができて、ヴァンの延髄をぞわぞわと快感が這い上がる。

 へえ、初めてじゃないんだな──。思ったよりもすんなりと指を飲み込んだ内壁を探りながら、ヴァンは口内で濡れそぼった粘膜の先に舌先を押し付けてねじ込んだ。

「ふ、…っうぁ、あぁ…ッ」

 指を抜き差しする動きに合わせて促すように吸ってやると、堪え切れなくなったようにメビウスが達した。身を反らせて強い反応に支配される数瞬、相手の頭を大腿で捕えるようなかっこうになってしまうのは、果たしてどういう心理からくるのか? 考え始めると嬉しくなってくる。

 だからちょっと、サービスしてやろうかとヴァンは思った。口の中に溢れたものを至極当然に飲み下し、先端への愛撫を続行する。

 ただほんの少し、探るような慎重さをもって。

「おい、何して…っばか、ぁっ、やめろっ」

 電流でも疾っているように震える両手でメビウスはヴァンを引き剥がそうとしたけれど、刺激のほうが強くてろくに力を入れることもできないでいる。そんな些細な抵抗なんかどこ吹く風、ヴァンは内壁の奥まった秘所に指先が届くよう突いてやるのと同時に、相手の反応から予測した一部への刺激を強めていく。

「やっ、あっ……奥…ぅ…っ」何か言いたかったらしいが、メビウスの声はもうまともな言葉になっていない。「あ、あ、は…っあ、待てっ、待って、ぇっ」

 これで待つならヴァンは最初から『続き』なんかしていない。

「ああぁ、あ、あああぁ──」初めは何とか堪えた嬌声が抑えようもなく溢れる。立て続け二度目、と称して相違ない快楽に見舞われて、未だ身体の反応が収まらず引きつるような息をしているメビウスを、やっと身を起こしたヴァンが覗き込んだ。

「どうだよ、気持ちよかった?」

「クソ、死ね…っ!」やっとのことでメビウスは言った。

 答えなんか判り切っているくせ、絶対に意地悪で聞いているのではないと判る、嬉しそうな笑みが何とも癪に障る。答えてほしいから聞いたのだろうが、答えてやる気はまったく起きなかった。

 気を抜けば無意識に腰が揺れそうだった、などと言えるものか。

「でも、もっとよくしてやるから」

「──な」

 信じられない言葉が聞こえて、ぎくりとしたメビウスの上にヴァンがのしかかる。そう、まだ終わってはいない。二度も達してただでさえどうにかなりそうなのは自分だけで、こいつはまだ何もしていないのだ。

「やっと、こうしてあんたの顔が近くで見られる…」少し前にはまだ余裕を保っていたその笑う顔が、声が、吐息が、今は押し迫る色を持っている。「ぐずぐずにしてやるから、ゆっくり愉しんでくれよな」

「待て、待て待て待て」メビウスは引きつり半分に制止した。冗談じゃない、これ以上、下手なことをされたら本当にどうにかなってしまう。「イきたいなら私がやってやる、だからもう──」

「やだ、あんたがいい」

 子供か──!! たまらず机か床か壁を叩きたくなっているメビウスの内心など察するふうもなく、ヴァンは相手の両頬を捕まえると口付けをした。

「んぅ──」

 言葉では無上に拒否を示していたメビウスであるが、口を閉ざしてでも拒絶するという選択肢は無かった。仕方なし、とばかりにそっと開いてやった隙間からヴァンの舌が滑り込んで来て、甘えるように絡みつく感触がたまらなく心地好い。こいつがたった今まで何をしていたのかなんて、気にもならなかった。

 今更言葉にするまでもない。メビウスはもう自分で理解し、否定することを諦めかけていた。この行為が途方もない快感であることを、そしてこのあと、ヴァンが自分に与えるであろう快楽が、想像を絶しているであろうことへの期待を。

 面白くないと思うことも、納得いかないと考えることも、どうでもいい。今はただ、こいつのしたいようにさせることが自分にとっても最良なのだ──。

 唇を離す僅かな隙間で濃い糸が引き合うのを追うように、メビウスから舌を伸ばして続きを求めると、ヴァンは待ってましたとばかりに舌ごと再度唇を塞いで覆い被さり、ゆっくり身を進めてきた。

「んく…ぅっ」

 散々中を掻き回していた指を抜かれて、物足りなくなっていたところへ入り込まれ、欲しかったものを満たされた下腹から込み上げるのは圧迫感ばかりではない。絶頂から間もなく、未だ敏感なままのそこを擦り上げられる感触は全身が粟立つ快楽を伴う。

「あっう…ッ、あぁ、いっ…!」

 びくんと身体が跳ねたメビウスの反応に合わせて唇が外れるけれど、ふたりは特に気に留めなかった。前戯で充分に内側を調べ尽くしていたヴァンの動作は極めて正確で、彼はメビウスの反らした喉や耳元に喰い付くようなキスをしながら律動へ至る。

「はっ、あう、うぅっ」肩口や脚がびくびくと震えるのを自分の意思で止められようはずもなく、かといってヴァンを押し退けようとするでもないメビウスの漏らす声は、反射に任せるままだった。

「メビウス…こっち見て」

 嬌声の混じる息遣いの中、何もかも受け入れて閉じていた目がうっすらと開く。快楽に潤み、蕩けた深紅の瞳が自分を捉えたのが判る刹那、鋭い快感が滲み渡る。緩く揺さぶっているうちは長い吐息でそれを享受するけれど、奥を狙って突き上げればイヤイヤをするように首を振り、あれだけ堪えていた声を惜しげもなく上げる。どこかが壊れたとしか思えないが、そうだとしたらありがたい話だった。──ヴァンにとっては。

「な?」強めの律動を保ちながら、ヴァンは言った。「気持ちいいだろ?」

「あ、っあ…んっ」

 と、メビウスが両手を伸ばしてきた。どうしたのかと思うヴァンの首に腕が回る。指先まで震えていたけれど、背にしがみついてくる力は強かった。

「メビウス──」

「いいっ…あ、はっ……悪く、ない…」吐息の合間、メビウスは言った。「だから、っ、そのまま…」

 ここで歯止めを失わなかったのは、自分でもよくやったものだとヴァンはあとになって思った。間隔と調子を狂わせることなく、求められるままの律動を続行していく。

「あ、もっ…あ、あ…っ!」

 狙いの瞬間だ。声を一回り上ずらせたメビウスを捕まえたヴァンは、彼の内側が波立ち絶頂を迎えたところで理性のタガを飛ばした。

 ずん、と深く打ち込んで激しさを帯び、秘所を突き上げる速さを増す。

「ぁひっ!?」予想だにしない仕打ちを受けたメビウスがたまらず悲鳴を上げるけれど、それは苦痛の色などまるで孕んではいなかった。

 それは、律動が続く限り終わらない絶頂だ。ヴァンは、今、相手が感じているのがどんなものかを嫌というほど知っていたことと、打ち込んだ自らに吸い付くような中の感触に、自分の息が上がっていくのを否めない。

「いッ、あっぐ、もういっ…もぅ、っ…あああぁぁあぁっ」

 しかしいくら苦痛ではないといっても、度が過ぎる感覚であることは確かである。メビウスは逃れようともがくが、純粋な力勝負となれば今はヴァンに分がある。がくがくと震えが来ている相手をいとも容易く抱き伏せて、ヴァンは鬼気迫って笑った。

 セックスで最ッ高に気持ちイイのは今なんだ、誰が逃がしたりなんかするもんかよ──。

 まるで傷でも抉られているようなメビウスの嬌声は、それに触発されたヴァンが熱を放って間もなく、当人が意識を失ったことでぷつりと途切れた。

 このおよそ数分の短い間が、悪夢のように鮮烈に残った。



 日の出からそう経たぬ早朝、目が覚めたメビウスの記憶は軽く飛んでいた。

 全身の筋肉が引きつるように痛む。それに気を遣いながらのっそり起き上がって、しばし放心するような間を置いて状況を整理する。

 まずこの寝心地のよい、しっかりした造りの大きなベッドはアデル・アルスターが愛用したものだ。かつてこの家に滞在していた間は自分も心地好く使わせてもらった。だからここは彼の部屋であろう。

 そして、自分の隣で何食わん顔をして眠っている男は。

 ああクソ、最悪だ──。メビウスは頭を抱えて項垂れた。瞼が腫れぼったいのは泣きじゃくったせいだし、腰の一部がジリジリと痛むのは同じところをずっと押し付けていたからで、全身の筋肉痛は日頃滅多にしない『激しい動作』をしたからだ。

 傍の椅子にかけてあった法衣の上着を物質転換で適当なガウンに換えてまとい、彼は何より先にシャワーを浴びたくてバスルームに直行した。

 季節を明確に意識していなかったが、少々肌寒い朝だったから熱めの湯が心地好い。身が温もる安堵とともに、昨夜の自分が完全にヴァンに一杯食わされていた事実が着々とよみがえって来て、彼は極めて長い溜息を吐いた。

 事件進展のためなどと、適当もいいところではないか。あいつならば独りであってもそこそこの対策案は考えることもできたろう、頼るとは言ったが巻き込むのとはまた別だ。わざわざ私と関係を持つ必要性はない──。

 タチが悪いことはこの上ないが、ヴァンのあれは今に始まったことではないし、以前の自分ならばこの程度の嘘は簡単に見抜いただろう。こうして苛々するのも、何かとはっきりしないもどかしさも、すべてはひとつの現実を受け入れられたなら解決すると解ってもいる。

 このメビウスが、またこうして新世界へ戻って来たのは、もう一度ヴァンに会うためだ。当初からやたらと気に入られていたことは彼も自覚していたが、双方ともに明確にそこへ言及したことは一度も無かった。

 でも、いざ隣からヴァンが居なくなった時、メビウスは感じてしまったのだ。

 ある種、物足りなさとも言える喪失感を。

『友人に会いに行きたい』

 そう切り出したメビウスを、サイガやリュウガも、そしてライセンもシオンも咎めはしなかった。

 元はと言えば『新世界』を新世界の内だけで完結させるべく、神羅神の降臨を始めとする様々な干渉に制約を課したのは誰あろうこのメビウス本人だ。クオンこそ物言いたげに口を尖らせていたけれど、当初と同じ封印を施すならばという極めて簡単な条件でそれは受け入れられ、彼はここにいる。

 友人、か──。

 いろいろと考えたくないことが頭をよぎり出したから、メビウスはそれ以上を考えるのをやめた。湯を留め、手首の組紐を解いて濡れた髪へ移動させる──これはこれで便利だと思う──と、吸水性と肌触りのいいガウンを羽織った彼が足を運んだのは、日頃はジゼルの城となっている、キッチンのあるダイニングだ。適当に室内を見渡し、ちょいと立てた指先に集めた『命令系統』の魔力を解散する。

 術の内容はこうだ。

『昨日の朝を再現しろ』

 ジゼルのことだ。昨日の朝から鬼龍に出立したと言っても、ヴァンやゼルの朝食の世話くらいは焼いただろう。その読みはしっかり的中し、棚や引き戸の中から食器や調理器具類などがぴょんぴょんと飛び出して来て、『命令』されたとおりの、昨日ジゼルに使われた『履歴』を構成していく。

 塩漬け肉の焼ける匂い、温かなスープに混じるスパイスの刺激、湯の沸く熱気。木製のダイニングセットでその様子をぼんやりと眺めながら、メビウスは自分が来る前の、この家の朝の様子を何気なく想像する。

 到底自分には似つかわしくない──というか馴染みのない──日常の光景は平凡そのものだ。メビウスとも拮抗しうる非凡な才を数多持つヴァン・クロウといっても、所詮は自分たち神羅神が創造したこの箱庭の中でしか生きられない小さな命。あと数十年もすれば居なくなり、通り過ぎていく輪廻の一環にすぎない。

 だめだな、短すぎる──。

 メビウスは前にも感じたことのある、そして今でも変わっていないその想いを小さな溜息にした。虫も動物も、人間ですらも、『求めるもの』を完全な形で手にするためには、生きていられる時間があまりにも短いのだ。生まれてきた意味、生きていく理由、本当に欲しかったもの……全うしたいと考える自らの目標でさえも、時として人は成せぬままにこの世を去る。

 ライセン曰く──サイガやリュウガも同じ考えだというが──、ヒトとは、そうして大きな目標や意志を未来へ託すために繁栄するのだという。遺されるものは知識であり、技術であり、未来に生まれる者たちはそれを更に自分たちが使いやすいように改良して更なる先へ繋ぐ。

 自分だってシノワに説いた。『過去』は『現在』の礎なのだと。遥かな過去を解明し、知識として現在を築いて遥かな未来を紡いでいく。その理屈はわかる。……理屈だけは。

「…びっくりした」

 声がしたと思って振り向くと、アデルの部屋から出てきたばかりのヴァンが目をまん丸くして立っていた。

「ジゼルが戻ってきてるのかと思ったぜ」彼は青い目を興味にきらめかせて言った。「何これ、あんたの魔法?」

「ああ、まあな」何の事も無く答えて、メビウスは続けた。「おまえもシャワーくらい浴びてこい。そろそろ頃合いだ」

 言われるまま彼がバスルームへ行って戻る頃には、昨日ジゼルがこしらえたものとまったく変わりのない朝食が出来上がっていた。普段は家事に手を抜かない彼女もさすがに時間には勝てなかったのか、焼き直しが利く保存用のパンと、厚切り野菜をキッシュのように詰めたオムレツに、スープストックを使ったお手軽ランチのような構成となっている。

「あんたは料理できる人?」向かいに座ったヴァンが言った。

「目的と手順が解ればな」まるで科学実験のことでも話すようにメビウスは言った。「宿泊の恩は返すつもりだが、今朝はこんなところで収めてくれ」

「いやいや、充分だよ」両手を合わせ、いただきますと礼節を果たしてヴァンは言う。「俺が何か作ろうとしたら、焼くくらいしかできないからな。正直ありがたいね」

「それはアレか、各地の未発達な文化に触れすぎたせいか」

「それもあるかな……でも基本、どの大陸でもどんな地方でも、原始的な調理方法っていえば直火焼きじゃないか? 実際、殺菌するにしても摂取しやすくするにしても理に適ってる、一番手頃で確実な手段だろ」

 こいつが『料理』を覚えないのは、そんなことをしなくても必要最低限の手段で生きていける能力と知識があるからだ。加えて、どんな活動に対しても必要なものの下限を把握している。だからこそ彼に言わせれば『料理』という文化は娯楽であり、自身が習得する必要性を感じていないのである。

 付け加えるなら、そんなことをしている暇があるなら、地下の書庫にアホほど貯め込んだ未調査の資料にかかりたい──といったところか。今は、そんなことをしている余裕もないけれど。

 やはりと言ってしまっていいものか、考え方や活動の方針、挙句はその理由の取ってつけに至るまで同意極まりなく、その理屈の中が、とても居心地がいい。

「……あと、その」と、ヴァンはちょっと言い難そうに言った。「ちょっと安心してる」

「ん?」

「あんたが帰っちまったんじゃないかって思ってさ。…目が覚めて、ジゼルが居るのかと思った時に。なんか時間とか操作して、全部無かったことにして、あんたが居なくなったんじゃないかって…」

 いきなり何を言い出すのかと、自分の分にはまだ手を付けていなかったメビウスが半ば驚きながら頬杖から頭をもたげると、ヴァンは、いやにバツが悪そうなくせ、どこか嬉しそうな感情を隠し切れない顔で頭を掻いていた。

 今は自分を見ていないその目が、今まで見たことも無いくらい素直に潤んでいたから、一瞬、返す言葉を完全に失って沈黙してしまった。

「……つまり」と、ややの間を置いてメビウスは呆れた。「私が気分を害して帰ったかもしれんと。それだけのことをした自覚があるわけだな、貴様は」

「いやー、あっははははは」

 なるほど、それでも謝るつもりはない、か──。苦笑いするヴァンを据わった目で見つめながらその真意を一発で理解したメビウスは、ふっと一つ息を吐いて言った。

「おまえがそうしたかったのなら、それでいい」

 謝らないというのは、悪いことをしたと思っていないバカの場合を除けば、自分に非があったとは認めない──詰まるところが『自分の立場を変える気はない』という意思表示になる。ヴァンだって頭は悪くないのだから、笑ってごまかそうなどとは露ほども考えていまい。

 その上で彼は、自分が言うところの『変わらぬ立場』に気を悪くしたメビウスが帰還するという選択肢を先に潰した。これまでの彼の言動には必ずどこかに逃げ道があったけれど、今度はそうではない。

 逃がさない──。そう言われて直接腕を掴まれているような危うさなのに、延髄をぞくりと疾るこの危機感を、甘く覚えるのは何故なのか。

 私はこいつとの接触に、何を求めているのだろう──。

「好きにしろと言ったのも私だしな。想定と違っていたからと言って、それを今更、別の意味に挿げ替えるつもりなど無い。……ただ」

 と、言葉を続けながらメビウスは手元のフォークを掴んだ。そして、どんな文句が続くのかと身構えている──ようには見えない、きょとんとした顔だが──ヴァンの鼻先にそれを突きつけて言った。

「この私が貴様に気分を害して帰るというなら、何もかも無かったことになどしない。貴様から私の記憶を消して去る、ただそれだけだ」

「あんたマジでやることがえげつないな……」

 おまえを殺す、誰かを消す──そんなことを言われるよりも余程恐ろしいとばかりに、ヴァンは神妙に、そして真面目くさって言った。

「でも」

 と、ヴァンはふっと笑みを浮かべた。安堵と称して相違ない、ほっと息を吐くそれ。

「俺だけがあんたを覚えてたのが、あんたの意思だったんだって、いま判ったよ。……ありがとな」

「……ッ」

 軽く脅かしたつもりが、完全に裏目に出てしまったメビウスが今度こそ絶句した。そんな様子を見たヴァンが、ようやく本性を現したように、にやりと悪ガキのように笑う。

「やっぱりあんた、すっげえかわいい」

「やかましい、さっさと食ってしまえ!」

 何の代償行為かドンと机を叩いて、メビウスは怒鳴った。

 ヴァンが幸せそうに笑っているのが、どうしようもなく面映くてたまらなかった。


 ジゼルとゼルが天魔国を離れている間、ヴァンは完全に自由なのかと言えばそうではない。ジゼルが、自分が留守のうちにと彼に頼んである『おつかい』がいくつかあり、それに合わせてオニキスのもとへの簡単なカウンセリングを含めた通院。更には歴史資料館や博物館での催しを監修するとかでの打ち合わせ──。時間がいくらあっても足りないくらいだ。

「こういう意味でもあんたが居てくれて助かるよ。ひとりで出掛けても、味気ないのは確かだしな」

 嬉しそうに先を歩くヴァンのあとに続きながら、メビウスは別段何を言うでもない。本来、神羅神が新世界の民──否、新世界そのものへ干渉を行なうこと自体が禁忌なのだ、ああしたほうがよい、こうするべきなどと口を出してはならない。

 それでも思わずにはいられない言葉が、ふと開いた口をつく。

「治っていないのか、『それ』」

「え?」一瞬何のことかと振り向いたヴァンは、相手の言わんとしたことをすぐに理解したか、ちょっと苦笑いを浮かべた。「まあな。割とマシになったとは思うんだけど、ジゼルに言わせれば『まだまだ、全然』だって」

「投薬は続けているのだな」

「ああ」

 ならば、ヴァンが言う『マシになった』というのは、薬物の血中濃度が一定に保たれている結果だ。医学にだって精通しているこのヴァンが、そんな単純なことに気付いていないわけがないけれど、言及して来ないところを見るに、これは彼にとって、あまり触れたくない話題に分類されるのかもしれなかった。

 ゼルのことは愛している。自分のものだと断言だってする。彼の殺意混じりの言葉や行動にも、時として歓喜すら示す。──けれど、アデルの死と、自分の心と身体に刻まれた痛みと恐怖の記憶はまた別物で、かつ絶対の傷だ。

 ヒトは、自身が思うほど強くはない。どんな強靭な精神も、フタを開けるか揺さぶってみなければ本当の強度なんてわからない。それなり以上にヴァンと深く関わった鬼龍のシノワや鉄機のラピス、あるいは獅童のアルセーヌやカスケード……彼らですら、彼が薬物の助力無しに『まとも』で居られないことを知ることは無かったし、知りもしなかった。

 この街の住人たちの口の堅さも去ることながら、この事実を隠し通したいとするヴァンの意志の強さは一種の狂気と大差ない。自身の捕食死を回避するために、致死の病に冒されてすら本能的に隠す生物が居るが、印象は限りなくそれに近かった。

 そういった本能を持つのは、基本的に捕食『される』側の弱い生物の特徴だ。知識量も思考回路もメビウスによく似ているヴァンは、すでにこの結論に辿り着いているだろうか?

「調子のいい日と悪い日の差が激しくてさ」

 ぽつりと別の話題でも切り出すように、ヴァンは街道沿いの市場に山と積まれた果実のひとつを品定めしながら言った。

「それでも、毎晩ヘンな夢見てギャーギャー言ってた頃に比べたらマシになったほうさ。今はあんたも居てくれるし、全然いいほうだね」

「……甘く見るなよ」

 彼が選ぼうとしたものより状態のよいものを差し出してやり、メビウスは言った。

「おまえは以前から、自制心の足りない節があるからな」

「おっ、それ昨日のこと言ってる?」

「それだけに留まらんだろうが!」

 ヴァンが受け取りかけたそれを彼の頬に思いきり押し付け、メビウスは怒った。酒に仕事に冒険に、加えて今は肉体的な接触──何もかもこいつの好きなようにやらせた日には、こっちだって身体がいくつあっても足りない。

「買うものが決まったのならさっさと会計して来い!」

「ふぇーい」

 新鮮な果実を擦り込まれて風味の良くなった頬をさすりながら、ヴァンが店主のもとへと向かっていく。呆れと苛立ちの中でも感じる、少しばかりの居心地の好さがくすぐったくて、早々に身を翻す──と、そのとき、メビウスは一歩横へ退いていた。

「わわっ」

 子供の驚いた声がして、まだ十も過ぎないような子供が彼の足下で盛大に転んだ。肩から下げていた布カバンが勢いに任せて中身をぶちまけ、ノートや筆記用具、それを削るための小刀などが散らばる。身体の下敷きになって刃が刺さるような事故にならなくて何よりだ。

「おいおい、大丈夫か?」紙袋を手に戻ってきたヴァンがメビウスを見やった。「足、引っ掛けたんじゃないだろうな?」

「失敬な」心外だとメビウスは言った。「私は巻き込まれんように避けただけだ」

「受け止めるくらいしてやれよ……ほら、立てるか?」

 まるで手を貸そうとしないメビウスの様子にすこし呆れながら、ヴァンは子供を引っ張り起こしてやると、そこらに散らばっている物も拾ってやった。

「あ、ありがとう…」

 子供はヴァンの顔を見ると、すこし恥ずかしそうにもじもじとうつむいた。やはり彼のことを知っているようだ。そうでなくてもヴァンは顔だけはいいから、男女に関わらず、この街の子供なら一度くらいは彼に恋をしても不思議ではない。

 ふむ、恋……か──。ヴァンが子供を見送る様子を眺めながら、メビウスは何となく腑に落ちたような感覚がしていた。

「どうしたんだよ? 謎はすべて解けたみたいな顔して」

「私はおまえに恋をしているのかもしれないと思ってな」

 一瞬、言葉が途切れた。

「……何だ、キツネにつままれたような顔をして」今度はメビウスが言った。

「いや、え?」まさに信じられないと言わんばかりに、ヴァンは慎重に言った。「あんたが俺に、恋? マジで?」

「少なくとも、『愛』でないことは確かだな」

「ビミョーに傷付くこと言ってくれるじゃないの。ま、『気まぐれ』だなんて言われるよりはずっとマシだけどな」

「は、よく言う。仮に本当に私がおまえを愛していたとして、おまえは私に、同じく愛で応えたのか?」

「や、無いな」

「そうだろう」

 ヴァンも即答だったが、それを認めるメビウスも即答だった。双方ともに、相手が自分に何と答えるか、もしくは互いが求めている答えをもともと把握していたからだ。

 ヴァンがゼルを愛してやまないことをメビウスはとっくに知っているし、ヴァンだって昨夜、メビウスが初めてではないことを察して、自分の知らない彼絡みの関係図が別に存在することを知った。

  つまり最低なことに、お互いが横恋慕なのだ。ならば下手な深入りはせず、友人以上恋人未満という今の関係を謳歌するのが一番良い。ただヴァンの場合は、何事にも全力投球してしまう悪い癖のせいで、生来のルックスの好さも相俟って『全身全霊の恋』を『愛』と取り違える女があとを絶たないのだが。

「おまえにとって『三年前』が人生最大の闇であることは致し方ない」メビウスは黒の簡易版に転換した法衣を翻し、家路のほうへ歩み出しながら言った。「だが、ゼル・ガロンへの想いが本物だというのなら、いづれはそれすら自らの一部であることを認める必要があるぞ」

「相変わらず厳しいよな、あんたの言葉は」苦笑いを含んだ調子の声が背にかかる。「……でも、俺にそうやって遠慮のない言葉をかけてくれるのはあんたくらいだ」

 ジゼルやオニキスが未だ遠慮と心配の中で言えずにいることを、メビウスは本当にずけずけと言葉にしてくれる。

 だがこの神は、だからさっさと忘れろとは続けないし、吹っ切るように促しもしない。ただやがてその日がやって来ることを示唆し、ヴァンに『どうしたいか』という選択権を残してくれる。この言動の真意は、メビウスがあまねく自由意思を尊重する『神羅神だから』なのだろうが、『恋をしている』なんて言われた手前、それだけではないナニカを感じさえした。

 おそらくこれは、自分たちが語り合う言葉の枠を超えた『神の愛』なのだろう。この世界の創造神に、この世界の民として愛される──そういう意味でなら、ゼルへ向けるそれとは違うところで享受できるような気がした。神は総てを赦し、総てを愛する──天魔国において広く一般的に信仰される経典も、そのように説いているのだから。

 でも、ダメだな──。ヴァンはメビウスのあとをついて歩きながら、重く深く息を吐いた。わかってたつもりだったのに、実際に目の前に突きつけられたらやっぱり恐い──。

 ゼルの殺意を心地好く感じることができるようになって、彼のことを愛らしく愛おしく思えるようになっても、彼が成したことまで同じく捉えられるかと問われれば答えはノーだ。

 ゼルはアデルを殺し、自分から親友を、ジゼルから父親を奪った。アデルの無残極まりない死に様を思い返す──ことは自ら封じているけれど、ふとしたフラッシュバックでよみがえる──際に、『それ』まで『愛して』しまったら終わりなのだ。

 人としても、ヴァン・クロウという個としても。

 乗り越えるためには莫大な時間が必要だ。焦る必要なんてないと解っているのにその制御が利かないのは、未だ彼が『壊れたまま』だという事実に他ならないのだった。



 気が付けばいつの間にか家に着いていた。鍵を取り出し忘れていたヴァンがアッと思った時には、メビウスはもう開錠の魔法でさっさと扉を開いて中へ入っていく。

「あんたなあ──」

 そのへんもうちょっと遠慮したらどうなんだ、と文句を言いかけた時、リビングに入ろうとしたメビウスの足が停まった。どうしたのかと思って、横からひょこりと中を覗く。

「なんだよ、忘れものでも……」

「待て、見るなっ!」

 腕を持ち上げて制止したメビウスの法衣が視界を覆うけれど、その隙間からヴァンは見てしまった。

 リビングに散らばっている『それ』を。

「あ──」

 それが何かを認識する余裕なんかない。あたりの景色が歪み、ぐるりと回った。ぶっ倒れそうになったところでメビウスに支えられ、手にしていた紙袋から買い込んだ果実がコロコロと転げ落ちていく。そのうちのひとつが、小さな血だまりの中に入っていった。

 そう、血だまりだ。

 声にならない呻きとともに身を折り曲げ、猛烈な吐き気に見舞われて両手で口を塞ぐヴァンの脳裏に、様々なものが入り乱れてフラッシュバックした。

 あの玄室の冷たい空気。廊下を響き渡った絶叫。肉を断つ鈍い音。刃が走る音。血の匂い。石壁に生えたカビの匂い。そこに転がった翼。腕。足。首。何もかもを失くした身体。

 そんな中で、声が聞こえる。

 ヴァン。愛してるよ、ヴァン──。

「あ、あ……」かたかたと震えていたヴァンの声が、ようやくひとつの形になる。「アデル──」

「ヴァン!」メビウスは言った。リビングを背に隠し、相手が息をしていることを確かめながら。「ヴァン、私を見ろっ。おいっ」

 リビングにあったのは、首や脚や翼をバラバラにされた白い鳥の死体だった。これ見よがしにテーブルの上に積まれているもの、床の上へ投げ散らかされているものをまとめると、少なくとも三羽ほど犠牲になっていると思われた。

 例の『ストーカー』が『昨夜』のことに業を煮やして、行為をエスカレートさせてきたのだと一発で察しがつく。だが『三年前の事件』は詳細を公表されていないから、この光景がアデルの死に様とリンクしてしまったのは完全に偶然だ。おそらく犯人は白い鳥にヴァンの白い翼を見立て、攻撃的な意思表示をしたつもりでいるのだろうが、あまりに構図が悪すぎる。

「ああ、アデル…! アデルッ!」

 火が付いたように叫んだヴァンが、メビウスの制止を振り切って室内へ飛び込もうとした。あろうことか死体の一部を拾い上げようとしたものだから、咄嗟にメビウスは身体ごとぶつかるようにして彼を留めたが、その目はそこにある凄惨な光景しか見ていなかった。受けたショックからよみがえったフラッシュバックが強すぎて、ここがどこでメビウスが誰で、そこにあるのが何なのか、解らなくなっているのだ。

「放せよ、放してくれ!」ヴァンが叫んだ。「『全部揃ってれば』、まだ助かるかもしれないじゃないかっ!」

「しっかりしろ、ヴァン!」

 思いのほか力が強く、自分では数分と抑えていられない。それを意識したメビウスは、ヴァンをリビングから引き離すべく動くのをやめた。足払いをかけて身体がバランスを失ったところで彼を懐に引き込み、座らせてやるように共に床へ崩れる。

「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!」何が、と明確にわからないままにヴァンがわめく。「放せよこの野郎っ、そこにアデルが──」

「アデルはもう居ないっ!」

 メビウスが上げた、怒声にも近い言葉でヴァンの抵抗がぴたりと停まった。それはメビウス本人も驚いてしまうほど激しいものだった。

「……アデルはもう、三年も前に死んだのだ」

 メビウスは改めて言った。落ち着いた、静かな調子で。暴れこそしなくなったがまだ呼吸が荒いヴァンの後ろ頭を掴んで、己が胸の中に押さえ付けるようにし、メビウスは彼の視界を自分自身で覆い隠す。

「答えろ、ヴァン・クロウ」そのままの姿勢で、メビウスは言った。「アデル・アルスターは何故死んだ?」

「ア、デルは……」

 言葉が途切れる。

「答えろ」少し強くメビウスは言った。

「嫌だっ…!」泣き崩れるようにして、ヴァンが頭を抱えた。「嫌だ、ああ、アデル…!」

 そのとき、メビウスは解ってしまった。ヴァンが未だにこの『傷』を引きずり続けている本当の理由、傷が癒えない本当の理由が。

 彼が拒絶してやまないのは、『ゼルがアデルを殺した』という事実なのだ。

 ヴァンがゼルを愛し、その罪を赦し受け入れたいと想う気持ちに対して、ゼルが犯した罪は、赦すことも認めることも、何より受け入れることすら到底できないことだった。彼が『嫌だ』と言って頑なに譲らないのは単に錯乱しているからではなく、『愛しいゼルが大切なアデルを殺した』事実を認めたくないからなのだ。

「ヴァン──」

 こんなもの、越えられるほうがどうかしている。自分ですら受け入れられるか判らない。創造神という身の上に在りながら、メビウスはあまねく『自由』を──他者を害することですらも──認められたこの世界の摂理が、その中でこれほどの苦痛に病んでいる者の存在が不憫でならなかった。

 何故この者でなければならなかった? こいつがこれほどの苦痛を負わねばならぬ謂われはどこにもない。それとも、類稀な才を持ち輝く者は、その陰に闇を引き寄せるのが宿命だとでもいうのか。我々がこの世界を創造する以前から、それは変えられぬ摂理だったとでも──。

 ……ああ、そのとおりではないか。

 かつて神の所業に焦がれ、それを己が手で成すことを望んだ故に、各国で数多の悲劇を生み、世界に甚大な犠牲を強いた、非道にして『邪悪な魔導師』が『居た』ことを思い出し、彼は死にたくなった。

 こいつらの前例は自分自身だ。ならばこの世界でヴァンがこうなってしまったことは、いっそ予定調和と称して相違なかったのだ。

「……?」

 何もかもを拒絶して顔を伏せていたヴァンは、ふと、自分を戒める腕の力が緩んでいることに気付いた。捕えているにはあまりに弱く、抱きしめているといってもやはり弱い。アデルの『死』を、それがもう『三年前』のことだとメビウスに怒鳴り突き付けられた時点ですでに我に返りつつあった彼は、そっと顔を上げて、見た。

 まるで少女のように無垢な涙をぽろぽろと零している男を。

「…なんで……」ヴァンはたった今、悪い夢から覚めたような顔で言った。「あんたが泣いてるんだよ」

「……すまない」

 そっと伸びたヴァンの手が濡れた頬を撫でるのを気に留めるふうはなく、メビウスは目を閉じて、真摯に、そして沈痛に言った。

「私が作りたかったのは、こんな世界ではなかったはずなのに」

「……あんたも人間なんだな」

 自分が元々は人間であったことなど、ヴァンに話したことの無かったメビウスは、えっ、と驚いて目をぱちくりさせる。その拍子に新しく零れ落ちた涙を指で拭って、ヴァンは力なく笑って言った。

「『後悔』するのは人間だけなんだよ」

 一本取られた、と思った。それでなくともメビウスはこちらへ戻ってきてからこっち、ヴァンには様々なものを奪われっぱなしなのだが。目を、身体を、そして心を──。

「ごめん、もう大丈夫だ」ヴァンは自分で頭を抱えていたせいで乱れた髪を軽く整えて、今度は無邪気に笑って見せた。「手間かけさせついでで悪いんだけど、掃除、頼んでもいいか? 朝みたいにさ、道具に魔法かけたりして…できないかな?」

「ああ、そのくらいなら……」

 ヴァンがそそくさと離れた扉を閉じながら、メビウスは自分のほうこそ未だ気持ちの切り替えが上手くいかなくて、さっきまでの錯乱と動転ぶりが見る影もなくさっさと立ち直った相手を呆然と眺めている。

 だがいくら普段通りの立ち振る舞いに戻ったとて、それは断じて彼がこのトラウマを乗り越えられたわけではなく、発作的な恐怖が一時的に治まっただけに過ぎないのだという現実が、どうしても痛ましい。

 だから、なのだろうか。

「おまえは、欲しくないか?」つい、メビウスは訊ねてしまっていた。「苦痛のない、穏やかな日々だけがある世界が」

 私ならそれができる。この世界からこいつだけを攫って、誰も彼のことを知らない、彼が求める『冒険』の尽きぬ新天地へ導いてやることが──。

「何だよ藪から棒に。いらないよ」

 あちこち転がってしまった果実を可能な限りで拾い集めて、ヴァンはやはり即答した。そのあっけなさにずきりと胸が痛む。あえて表現しろと言われたなら、それは失望だったのかもしれない。神にも比類する才能、英知、能力──何もかもが申し分ないヴァンなら、この手を取ってくれるような気がしたのは思い過ごしであったか。

 ……あるいは、慢心であったのか。

「俺は、これまでの経緯がどうであれ、あんたに会えたのは最高の幸運だったと思ってるんだ。それをあんたの個人的な後悔ひとつで、全部なかったことになんかされたくないね」

「この設問が私個人の悔恨であるなどと、何故断じられる」メビウスは言った。半ばむっとして。「おまえは過去に怯え、自身の無力を悔いてきた。そして今もなお立ち直れずにいる。すべてを忘れる手段があるなら使えばいい、私に望めばいいだろう」

「だぁから、俺にしか焦点合ってない時点であんたの個人論だって言ってるんだろ。仮に俺があんたに頼んで記憶全部失くしちまったら、他に誰がアデルのことを覚えとくんだよ」

「覚えていた結果がそれだろう」

「違う、これは経過だ。それに俺は、同情ってもんが死ぬほど嫌いでね。俺がめちゃくちゃな悲劇を経験したのは確かだけど、そこに主観だけで情けをかけられるのは御免だぜ」

 メビウスはぐっと何かを堪えるように黙り込んだ。

 ヴァンにはヴァンの人生がある、経験がある。アデルやゼルをはじめとした他者との感情のやり取りがあり、掛け替えのない思い出もある。この人生は、いかな神羅神といえど『他人』のものではない。

 それにジゼルはまだ幼かったから父親の姿も顔もおぼろげにしか覚えていないし、ゼルに至っては論外だ。アデル・アルスターが極めて優秀な冒険家である事実と共に、彼が成して来た何物にも勝る栄光の記憶は、相棒であったヴァンの中にしか残っていないのだ。一切の挙動を、その声を、言葉を──。

「今も乗り越えられてないことについては反論しないよ。事実だからな。……でも、だからって、俺はアデルやゼルを忘れたいわけじゃないんだ。今は無理でも、いつか来るかもしれないだろ。なんかの拍子で吹っ切れる日がさ」

 それは、一生来ないかもしれない、とも言い換えることができる。ただ本当にそうして越えることなく終わる日が来たとしても、この男は平然とこう言うだろう。

「そんなもんなんだよ、人間の人生って」

「……そう、か……」

 自分たちの価値観が絶対的に違っていることに、今更ながらメビウスは気付いていた。そして、自分がこの男に惹きつけられてやまないのは、この価値観の違いにあるのだとも。

 ヴァンにかけられていた成長停止の術の件がその筆頭であろう。上手くすれば永遠を生きることができたかもしれぬ幸運を『呪い』と言い捨て、それを解くべく躍起になっていた彼らと、自身が掲げる目的のために自らで肉体の時を停めたメビウスでは、文字通り存在する世界そのものが違うのだ。

 無論、求めるものの次元が違っていたことも事実ではあるが、富や名誉、莫大な知識や愛しい者──限られた時間の中だからこそ、人はより多くのナニカを求めて命の火を燃やすことができ、この世の人間はそれがまっとうな道であると信じてやまない。

 そして、ヴァンはその輝きが誰より激しいのだ。悪い表現になってしまうが、この世の者たちはそんな彼の激しさに中てられて、見返りなど無くても手を差し伸べたい、彼の望むことを共に成し遂げたいと想うようになる。そんなふうに人の心を動かすだけの魅力が、このヴァン・クロウという男にはあるのだった。

 神と成り、ただ流れゆく悠久の時に慣れていたメビウスの心すら、ヒトであった頃の熱を思い出すほどに──。

「でも」と、ヴァンは不意に言った。「あるんだぜ? 俺が過去とかなんかめんどくさいこと全部忘れて、安心できる時が」

「……安心?」どうせ仕事か冒険の最中だろ、と思ったところで、それにしては似つかわしくない単語を聞き付けたメビウスがおうむ返しに訊ねる。安らかな時間といえばだいたいは眠りの時だが、こいつのそれは薬の効果による無機質なものだ。安らぎとは程遠い。

「あんたを抱いてるとき」

 リビングを『清掃中』はアデルの部屋にでも引っ込むか、と思ったのは二人とも同じで、先に扉を開いたヴァンに続こうとしたメビウスの足が、ぎくりとしたように止まった。

「どうしたんだよ?」けろりとした顔でヴァンが言った。「あんた、さっき自分で言ったじゃないか。自分を頼ってくれって。なら、付き合ってくれてもいいだろ?」

「状況も意味も用途も違うだろうが…!」バカか、と、ぼやきまじりに、メビウスは心底からの溜息に乗せて言った。

 一瞬こそ自分だけがバカな思い過ごしで勝手に竦んでいるだけかと思ったが、やはり行為を求めているらしい。

「ちなみに、あんたと一緒に居ると安心できるってのはマジだぞ」これだけは言っておく、とばかりに、ヴァンは大真面目に言った。「薬が無くても眠れるし、悪い夢も見ないんだ。昨日もそうだったけど、…前に、あんたと一緒に眠った時もそうでさ。あの感じが忘れられなくて」

「まさかおまえ、だからといって昨日から薬を飲んでいないのではないだろうな?」

「あっはははは」ベッドに座ったヴァンはあっけらかんと笑った。「いやー、血中濃度って大事だなあ。ちょっと薄くなるだけで、あんなめちゃくちゃに取り乱すとは思わなかったよ」

 この男の後ろ頭を今すぐぶん殴って、明日の朝までぐっすり眠らせてやりたい衝動が込み上げてやまない。これはあくまでも、極度の精神疲労から立ち直って間もないヴァンのことを労わる気持ちから来る衝動だと言っておきたいところだが、それをやってしまったら彼の『血中濃度』は更に下がることになる。

 それに、自分に触れていることで、ヴァンがさっきのように我を忘れて錯乱するほどに『恐ろしいもの』を『視』なくて済むというのなら。彼の『短い』生涯に、自分が少しでも安らぎの対象として残るのなら。

 それも、悪くない。

「……先に薬を飲め」歩み寄るついで、髪の組紐を解いて襟を緩めながら、メビウスは言った。「途中でトチ狂われたらかなわんからな」

「いやいや、そこは許容しようぜ」ヴァンは本気で言っているとしか思えない真顔で言った。「あんたこの世界の神様だろ? 民のために一肌脱いでくれてもいいじゃないか」

「ほぉ? いいだろう…」とことん都合よく『神』を利用してくるクソガキに感情を抑え切れず、表情を引きつらせたメビウスはその手に金色の錫杖を召喚する。「ならば、愛しい新世界の民がこれ以上苦しまずに済むよう、この私が一撃で葬ってやる」

「わーお、最ッ高じゃないの。それが神様の愛ってこと?」

 このバカはまるで怯む気配がない。ヴァンは嬉しそうに笑うとすっと腕を伸ばして、錫杖を持つメビウスの手に手を置いた。

 その行動に、感触に気を取られたごく短いほんの一瞬で、彼は思わず声が出る速さでヴァンの上へ引き倒された。取り落とした錫杖が床にカツンと音を立てて消え去る時には、ふたりはもう口付けを交わしている。

「ん…」

 唇をなぞって甘い舌をねだるヴァンに応えて、どちら側ともつかない口内で絡み合ううち、 黒い翼の峰を緩く逆撫でた手が背に入ってきた。

「おい」離れたがらない相手を引き剥がし、メビウスは言った。「先に薬を飲めと言ってるだろうが」

「飲まないとダメ?」ヴァンはちょっと首を傾げて訊ねた。他のことをして気を削がれるのが嫌らしいが、そんなことを言っている場合ではない。

「子供か。…いまちゃんと飲むなら、好きなようにしてもいいんだぞ」

「あんたが俺の好きにされたいんじゃなくて?」

「──そうだったら?」

 挑むように、悪戯に笑っていたヴァンの目が、僅かな間を置いて丸くなる。そんな彼に自らの影を落とし、肩口から零れ落ちる髪に構わずメビウスは言った。

「錯乱して他の誰とも知れぬ幻を見ているおまえより、こうして確かに私だけを見ているおまえにならどうされてもいいと思っていたなら、どうなんだ?」

「……そこまで言われたら」期待をまるっきり隠し切れない、だらしのない笑みを浮かべて、ヴァンは頭を掻いて言った。「ま、しょーがないなあ……、って思っちゃうね」



「ん、ぅあ…っ」

 腰から這い上がる快感に押し上げられるまま、逸らしたメビウスの喉から熱い息が漏れる。

 壁に背を預けたヴァンの腰を跨いだかっこうで、たっぷり潤滑油を含まされた秘所を指で掻きまわされ、あるいはぐっと押し上げられて。

「あー、あんた今、すっげえいい匂いする」

 膝の力が抜けないように色々なものを堪えているメビウスと裏腹に、ヴァンは彼の頬や耳元にキスをしながらうっとりと言った。

 甘い、甘い、蕩けるような蜜の匂い。ヴァンは、もしこれが罠だったとして、はまり込んだ先に毒蛇の牙が待っていたとしても構わないとさえ思っていた。……今だけは。

 ヴァンの下に居たなら、メビウスは上気した頬を隠すこともできたし、顔を逸らすこともできたけれど、上ではそうもいかない。身長だって彼のほうが高いから、こういう体勢になるとヴァンが下から覗き込むようなかっこうになる。

「いい眺めだな」

 息遣いも小さな喘ぎも聞き逃さない至近距離で相手の顔を見上げ、ヴァンは指先で奥まったところを突き上げ、届いた時に爪で掠めるように引っ掻いてやった。

「んん…ッ」上ずる声も、当初に比べれば随分と素直になったものだと思う。

 拠り所を求めてヴァンを挟む形で壁に手をつき、甘い痺れに身を震わせながらやっと身体を支えているメビウスに、ヴァンは何度目と知れないキスをする。濡れた唇を吸い、糸を引くほど熟れた舌を啜る。

「っふ、はっ…」

 甘ったるく絡む感触が心地好くて、さっきとは違った涙が零れそうになっている表情が、そして故意か無意識か、ヴァンの指の動きに合わせてもどかしげに腰を揺らす仕草がかわいくて、このままキスだけで俺もイけそうだな──なんてバカなことを考えていたら、

「……ヴァン…」と、メビウスが言った。「も…、いいだろ…っ…挿れてくれ…」

 自身が何より好む、持続する快楽にボーッと耽っていたヴァンの脳髄に、その求めは何より強い信号になって響いた。主導権は自分にあると思っていたが、惰性を衝動に変えるスイッチはメビウスの手中にあったようだ。

「悪い、遊び過ぎちまったな」

「……」

 適当に謝って着衣を緩める短い間、メビウスがいやに大人しいと思ったら、彼はヴァンの手元を見ていた。熱と期待に潤んだ目で、これから自分に打ち込まれるそれを。

「なんだよ」相手の腰を引き寄せながら、面白そうにヴァンは言った。「俺とするのそんなに楽しみ?」

「ああ……認めてやる。図に乗ってもいいぞ」熱い吐息混じりに、メビウスは笑った。

 挑発的で、そして淫靡な笑みだった。今まで色んな女を見てきたし、抱いてもきたが、今のようにごくりと喉が鳴るほど気持ちが逸った相手なんてそうそういなかった。メビウスも同じように思ってくれていればいいなと切に思う。

「んッ…あ、待て…っ」ヴァンが秘所に進みかけた時、メビウスは深く息を吐いて言った。「ゆっくり……ゆっくり、来い」

「は、簡単に言ってくれるじゃないの」

 今すぐ奥まで貫きたかったけれど、それでは昨夜と同じことだ。最初は自分が思いきり愉しんだのだから、今度はメビウスがいいようにしてやるのも悪くない。

 ただ。

「んうっ、あ、あっ…」まだほんの入口のところだというのに、メビウスは少し肉が擦れ合っただけで今にも達しそうに身を震わせる。

 もともと昨日の今日で、さほどの前戯を必要としなかったところに散々潤滑油を塗り込まれたメビウスの内側は、媚肉と言ってもいいくらい感度を上げてしまっていた。それにヴァンだって、彼のそこが、こんな柔らかく吸い付いてくるだなんて思いもしない。

 やば、こんなイイの初めてかも──。下腹から脳を絶えず貫いてくる快感に侵されそうになりながら、ヴァンは慎重にメビウスの身体を沈めていった。

 『水面』の下へと引き込んで、じわじわ溺れていく様でも愉しむように。

「は…ッあ、あぁ──」どこを見ているともしれない熱に浮かされた目をして、メビウスはだんだんと深くなっていく快楽を飲み込んでいく。時折何かを堪えるように身震いする姿が、まだここで終わりたくないからなのだと見て取れて、余計に扇情的だ。

 ようやく深く繋がっても、ヴァンの律動は変わらなかった。溶けてしまった肉の奥、未だ確かな感触のある箇所に狙いを定めて、緩やかに揺さぶる。

「あ、あ…──っ」

 ざわりと肌を粟立たせたメビウスの声が高く掠れると、ヴァンを包む媚肉もひくひくと波立った。熱を放つことを求められているのが本能的に解って、今やなけなしの理性のタガが飛びそうな一瞬だが、まだ絶頂は来ていない。

「ヴァン…ッ、あ、もう…っ」

 脚に力が入らなくなって、体勢を維持できないメビウスがヴァンの後ろ首に両腕を回す。呼ばれるままにヴァンは身を起こすと、彼の身体をシーツに押し倒した。一緒に倒れ込んだ刹那、先ほどまでよりずっと深く身体が繋がる。

「メビウス…」緩い動作の中でも、さすがにここまでくると限界を感じる。ヴァンは努めて平静に言った。「俺、もうそろそろイきたいんだけど…あんたはどう?」

「わ、たし、も…」快楽物質に浸されて脳まで溶けたか、メビウスはうわ言のように言った。「私も、イきたい…っ、おまえに、おまえにイかされたいっ」

「──嬉しいね、ウデが鳴るよっ」

 それまでの緩慢さを撤回して身を乗り出すと、ヴァンは自身の速まる呼吸に合わせて律動を強めた。

 一息に貫き、肉を擦って、メビウスの最奥に一定律を刻み込む。

「あうっ、ううっん…っ!」メビウスはヴァンの腰に脚を絡め、縋り付いた。このまま犯し尽くされて追い落とされそうな危機感と、それとは裏腹に腹の底から込み上げる、眩暈がするほどの心地好さ。ヴァンが自分を貫くたびに絶頂を越えていく、そんな気がしてならない。

 こいつになら、このまま落とされてもいい──。

「あっ、あっあぁ、来るっ」ヴァンに刻まれるものとは違った波が自分の中に起こるのを感じて、メビウスは口走った。「ヴァンッ、もっと、もっと奥ぅ…っ」

「メビウス…ッ!」

 先に踏み外したメビウスが伸ばした手を、ヴァンが取る。ばちんと身体の奥で熱が弾けて、ふたりはほとんど同時に達した。

 ずっと堪えていたものをやっと吐き出す瞬間、ヴァンの身体と脳を震わせたのは、莫大な解放感と、メビウスが上げた長い嬌声だった。

 性行為は知性を下げる、などと世の学者たちが言う意味と理由がよく解る。今はこの、目の前で、脚に来ている不随意な振戦に耐えている男がかわいくて、こいつの何もかもを手に入れたような気がして仕方がない。

 今までは、男相手といえば抱かれる側ばかりでまともに抱いたことなんてなかったけれど、こんなに心地好いのならクセになってしまいそうだ。……ゼルには口が裂けても言えないけれど。

 と、メビウスがのそりと動いた。荒い息をしながら、そろそろ離れようかとしたヴァンを引き留めるように抱きしめて、繋がったままの腰を揺らす。

「え、おい──」

「んっ、ん…あ、うっ」

 びくんっ、とメビウスの身体がまた跳ねた時、ヴァンの背筋を、そわりと薄ら寒さにも似た快感が撫ぜていった。うわ、まだイッてるんだ──。

「…大丈夫か?」そんなわけがないだろうと自分でもわかっているけれど、ヴァンはとりあえず訊ねてみた。

「私のことは、いい……」呼吸を整えようとしながら、メビウスは言った。ヴァンが離れるのを、今度は引き留めたりしない。「このまま…少し眠りたい…」

「ああ、わかったよ」

 人間ではそうもいかないところだが、そこを気にしないのは神様だからだろうか。ヴァンは彼に倣って細かいことを気にしないようにして、シャワーでも浴びようかと部屋を出た。

 身体に強く残ったメビウスの匂いを落としてしまうことを、残念に思いながら。


 ──男は、殺気立っていた。

 それもそのはず、彼はつい今しがたまでの、ヴァンとメビウスの情交の様子を余すところなく凝視していたのだから。

 アデル・アルスターの部屋であったその窓は、人の目よりやや高い外壁に囲まれた裏庭に面していて、人の目はまずない。だからヴァンはカーテンを引くでもなくブラインドをつけるでもなくそのままにしてあったのだろうが、裏庭に入ってしまえば全てが見えてしまうことに変わりはない。

 ヴァンの部屋は表通りに面していたから、そこにいる彼を写真に収めるのはとても簡単なことだったけれど。

 彼が窓に近付くと、すぐそこのベッドでこちらに背を向けて眠っている男の姿が見える。陽の光を受けてきらきらと光る長い金髪。ヴァンはこいつとの行為の間、ずっとそれをたぐり寄せては梳き、口付けをしていた。

 憎らしい。妬ましい。今すぐめちゃくちゃに切り刻んでやりたい──。彼がそっと手を触れると、窓は何の抵抗もなく開いた。もともとわずかな隙間があった気がしたから、おそらくは風通しを良くしたくて少しだけ開けてあったのだろう。

 これ以上の好機はない。鍵がかかっていたのなら、このガラスを思いきり叩き割るだけで逃げてやろうと思っていた男の感情に火が付いた。

 窓枠に足をかけ、大きな裁ちバサミを手にその男に掴みかかろうとしたところで、『それ』は起動した。

 男の足下に赤い紋様の描かれた魔法陣が立ち上がり、胸元近くまで浮上したかと思えば頑丈な縄のように身体を拘束する。

「わ、わっ!?」

 思わず声を上げてバランスを失い、ベッドの上へ落ちるように倒れ込む。

 そこにはもう、誰も寝ていない。

「…やはり、あとを尾けてきていたな」

 頭上から降ってくる声に目を上げてみれば、そこには立派な赤の法衣を着た金髪の男が立っている。まとったシーツを物質転換で自分のものに変えただけだが、この男にそのメカニズムは理解できまい。

「ヴァンではなくこの私を狙ってくるとはいい度胸だ」金髪の男は淡々と言った。さっきまでヴァンに見せていた甘い表情は、その気配すらない。「新世界の民に手を下すのは本意ではないが、私に危害を加えようというのなら話は別だ。消えてもらおう」

 伸びた手に金色の錫杖が召喚されるのを見て、その先端に、強い熱を帯びた赤い光が収束する様を見て、今更ながらに男は戦慄した。この魔道士は笑いもしなければ怒りもしない。ただ冷酷に、冷厳に、何のためらいもなく自分を殺してしまおうとしていることに気付いて。

 身体を拘束する魔法陣は絶対に外れない。逃げられない。殺される──。触れてはならなかったものに触れてしまったのだと本能的に悟った男が、その本能のままに断末魔を上げようとした時、救いの手はあらぬところから飛んできた。

 ひゅん、と空気を裂く音と共に、魔道士の錫杖を持つ手に縄鞭が巻きついて、きつく喰い込んでいた。

「そこまで」戸口に立っていたヴァンは、メビウスの腕を拘束したマチルダを強く引きながら言った。「相手は子供だぜ。本意じゃないなら、俺に免じてここはおさめてくれよ」

 ──そう。

 この世の原理では解明できない魔術に身体を拘束され、存在もろとも消されるところであったその男は、まだ幼い少年だった。時はもう遅い夕暮れだが、ヴァンとメビウスが昼間に市場で出会った、あのそそっかしい子供だったのだ。

 ふたりとも、その時にはすでにこの少年が件の『ストーカー』だと気付いていた。メビウスは彼に小刀で脚を刺されるところだった時に、そしてヴァンは、そんなメビウスの態度を見た時と、少年の身体に残る、おそらくは白い鳥を刻んだときに付着したのだろう濃い血の匂いを嗅ぎつけた時に。

「私は言ったはずだ、甘く見るなと」メビウスは言った。「ここで私がこいつを見逃せば、こいつは『また』貴様に助けられたことで歪んだ思いを募らせるぞ」

「さてね、そうなったらその時だよ。痛い目見て、恐い思いもしたんだ。これに懲りて改心する未来もアリだろ?」

「……」

「俺も言ったはずだぜ。人生はそんなもんだって」

 その甘さを咎めるようにヴァンを視界の隅に捉えていたメビウスの目が、ふっと閉じた。少年の身体を戒めていた魔法陣が失せ、手から錫杖が消える。

「…それがおまえの信じたい未来ならそうするがいい」

 新世界での問題は、同じ新世界の民同士で解決させるのが本来の摂理だ。それを思い出したか、あるいは考え直したか、メビウスは室内のふたりに背を向けた。

 歯の根が合わずろくな言葉も発せられないでいる少年が、これを好機とメビウスに襲い掛かるようなことは絶対に無かった。ここに居たのが誰であったとしても、ここに在るのが『何』であるかを魂の底で理解してしまった以上、近付くことすらできはしないのだ。

「大丈夫か?」

 目に見えるほどの戦慄に見舞われていた少年が目を上げれば、ちょっと申し訳なさそうに笑って手を差し伸べているヴァンの姿。こいつにしてみれば、どんなにおぞましい殺害行為をし、また自分に性的接触を強要するようなメッセージを送り付けてきた脅威の不審者も、種が割れて犯人の姿が明らかになってみれば何も怖いことはないのだろう。

 ああ──。少年は思った。あのときと同じだ。塾の帰り、強盗に襲われた僕を助けてくれたあのときのあなたと──。

「…どうかしたか?」

 ヴァンは呆然と自分を見ている少年に、きょとんと首を傾げている。そのとき少年は気が付いた。彼が自分を覚えてもいないことに。自分の命を救ってくれたことなど、彼にとっては何でもない日常の一コマに過ぎないことに。

 このひとはそのくらい、誰の手も届かない人なんだ、と──。

「一応、身内に釘を刺されてるんでね」ヴァンは言った。「君のことは保安官に報告させてもらう。悪く思わないでくれよ」

 身内ばかりでなく、オニキスから話が通った円卓の騎士たちからもうるさく言われ始めていたところだったから、この少年のことはきっと王宮の知るところとなるのだろう。あとはアーサー王の器量に任せるといったところか。

「…はい」俯いて、少年は言った。

 激高も嫉妬も憧憬も、何もかもが消沈した声だった。




   終幕


 ヴァンが少年を連れて入っていった保安官らの詰所で、彼らの話が終わるまでの間、メビウスは夕暮れの深まる外の通りに立っていた。

「おう、メビウス」

 ぼんやりを空を見上げていたその目が、背後からの呼びかけを受けて振り向く。

 そこには、長らく共に神羅神として付き合ってきた見知った顔──サイガと、少し離れたところにリュウガの姿があった。

「なんだ、揃いも揃って」メビウスは嫌な顔を隠さずに言った。「封印も無しに、神羅神が二柱も降りてくるなど前代未聞だぞ」

「なに、かたいことを言うな」サイガは面白そうに笑って言った。「おまえにしては珍しく、随分と入れ込んでおるようだと思うてな?」

「は、この私が、こんな小さな世界の民に入れ込むだと?」つまらん、とばかりにメビウスはそっぽを向いた。「何をしに来たのかと思えばそんなことを言いに来たのか。生憎と、もうじき戻ろうかと思っていたところだ」

「ヴァンの『家族』が戻ってくるから、か?」

 嘘を見抜かれた子どものように、ぐ、とメビウスの喉が詰まった。

「なあ、メビウスよ?」

 言い返せなくなったことを図星と認めたくないメビウスが、それを転嫁するようにサイガを睨むのに、彼はまるで気に留めず親のように笑って続けた。

「おまえこそ忘れてはおるまいか? 我ら神羅神が『神羅神』であることは、本人の自由意思なのだぞ」

 えっ、と驚いた顔をしたのはメビウスばかりではない。サイガの背後に控えていたリュウガまで、何を言い出すのかと自分の伴侶を見ている。

「…どういうことだ」メビウスが低く言った。威嚇でもするように。「私に神羅神の力を捨てろとでも言うつもりか」

「つ もりではない、そう言うておる」さらりとサイガは言った。「はじめは八人もおった神羅神は、今や俺たち三柱のみ。他の者らは、己が守るべき世界、愛する者のために自ら力を捨てて本来の存在へと戻っていったろう。──メビウスよ、おまえがもしこの新世界こそを己が守るべき世界と想うのなら、そう在ってもよいのだぞ。ヒカリも異論は言うまい」

 場が、しーんと静まり返った。そもそもこの場はすでに、サイガとリュウガの降臨のために次元が隔離されて『無人』となっている。人通りなどあるはずもなく、ただ、本来の力を持ったままの二柱の神羅神を象徴する、東に蒼を、西に金色を抱く『暮れ始めの空』が在るだけだ。

「私が…」メビウスが言った。唖然とした表情が、見るものを失って虚空へ降りていく。「私が、この世界に……?」

 他の神羅神たちには、守るべき世界があった。神であることなんかより、ずっと大切なものがあった。だから何の迷いもなく神の座より退いて、元の世界へ帰っていった。だが当時のメビウスにそんなものはなかった。だから彼は自らの知的好奇心が赴くまま、様々な異世界へと旅をする存在となったのだ。

 詰まるところ、早いか遅いかの差に過ぎない。守りたい世界、大切にしたいもの──それが今になってできたからと言って、誰も今更何をと咎めはしない。むしろ祝福するだろう。

 ──でも。

「……だめだな」

 顔を伏せていたメビウスがふと、笑いまじりにぽつりと言った。呆れたように少しだけ笑って、首をもたげる。

「私には、この世界のサイクルは短すぎる」

「……そうか」

 その表情に何を見たのか、サイガは息を吐くように笑って、一言答えたのみだった。何故とかどうしてとか、訊ねようとはせずに。

「おまえの中で答えが出ておるのなら、俺もこれ以上は言うまいて。好きなように、在るがままに在るがよい」

「何を偉そうに──」

「馬鹿者め」この期に及んで文句を言おうとしたメビウスに、サイガはぴしゃりと言った。「総ての存在にそう在れと望んだのはおまえ自身であろう。我ら神羅神とて、例外ではなかろうが」

 息をするのも忘れそうな無言の一瞬、メビウスがまばたきをした時にはもう二人の姿はどこにもなかった。まだ明るかったはずの夕暮れはとうにその気配を潜め、頭上の空には星々がまたたき出して宵が始まっている。

「おーい、メビウス!」

 背を向けていた建物のほうからヴァンの声がして、見やってみると彼が出てきたところだった。

「悪いな、長いこと待たせちまって」ヴァンは言った。「あそこの連中、話が長くて困ったもんだよ」

「いや、構わん」そんなに待たされたつもりはなかった。「子供の措置はどうなった」

「初回につき厳重注意のみ。次に何かあった時は、保安部じゃなくて王宮が出てくるからそのつもりで、って脅かしといたから大丈夫だろ」

 脅かしではなく本当のことである手前、あの少年にはぜひとも更生の道を歩んでもらいたいものだ。……でも、ヴァンに助け起こされたあの時の、失意にも似た表情を見るに、もう彼にヴァンへの想いは無いように感じられる。

 ……サイガは何も突っ込んだことは聞かなかった。自分もそうだったのだろうか、と不意に嫌な感覚が胸をよぎる。

 自分も彼のように、何かを諦めた顔をしていたのではないか、と──。

「なんだよ」ひょこりとメビウスの顔を覗いて、ヴァンは言った。「なんか疲れてるな? 帰って寝るか?」

 あまりにも当たり前に、このままヴァンの自宅へ戻ることを大前提にされている。それをどのように捉えればいいのか戸惑いが生じた刹那、ヴァンはその実年齢には到底似合わぬ、本当に子供のような笑みを浮かべて言った。

「まだしばらくこっちに居るんだろ。ジゼルたちが戻ってくるのもまだ先だからな、こんな序盤でぶっ倒れられたら困るぜー?」

「すまんが何の話をしているのか主語を明確に示してくれるか」

「あんたと再来週まで過ごす蜜月の話」

「再来週!?」思わず声のトーンが跳ね上がる。

「長期戦になるかなーと思って、予定は長めにしておいたんだよな」あはは、とヴァンは笑いながら言った。それが功を奏した、などと思っていること請け合いの得意げな顔で。「せっかく鬼龍の古代遺跡を観光できるってのに、事件が終わったからって即行呼び戻すなんて可哀想だろ?」

「体のいい言い訳にしか聞こえんのだが……?」項垂れそうになるのを何とか片手で支え、メビウスは言った。

「もちろん、言い訳ですが何か?」何一つとしてごまかそうとせず、しれっとヴァンは言った。「あんたとはまだまだやりたいことがたくさんあるんだ、簡単に帰したりなんかしないぜ?」

 ぱちん、と軽くウインクして見せる仕草が完全に慣れ切ったそれで、疲れ切っていたはずのメビウスの頭にたちまち余計な血がのぼる。

 相手の顔もまともに見られない羞恥と、むず痒さにも似た苛立ち。またそれに伴った奇妙な高揚感──。

 彼はまだ知らない。それが『嬉しい』ということなのだと。

「…忙しない生き物だな、まったく…」

「なんだよ、二週間も一緒に過ごせるんだぞ。ちょっとは喜んでくれてもいいだろぉ?」

「そんな時間、ほんの一瞬だろうが」

 そうだ。二週間どころか、おまえの一生ですら私にとっては『一瞬』に過ぎない──。

「だ、か、らっ」

 それでも家路へ向かおうとしたメビウスの腕に、ヴァンがじゃれついてくる。その体重を含んだ力強さと体温が法衣越しに伝わってきたとき、メビウスはこの男を振り解きたくはないと思った。

 自分の欲求にとことん素直で、特にカラダの訴えにはやたらと愚直で、なのにそれを正当化できるほどに小賢しい、このマセたガキの姿をした男を。

 この世の生命に、……『こいつ』に、『そう在れ』と望んだのは私自身──。

「短い間だからこそ、全力で愉しむんだろっ?」

「……嫌いじゃないぞ、おまえのそういう単純なところ」

 満更でもない顔をして、メビウスは小さく笑った。

 ならばこの『一瞬』、私も全力で愉しんでやろうじゃないか──。




                               END(2018/04/08)