りきりの女王



『カカベル様の…眠りを…妨げる…者は…』

 通路奥の影の中で、ゆらりと影より暗いものがうごめいた。

『何人…たりとも…』

 ずん、と重いものが踏み出す足音。鎧防具の金具が揺れる音。ヴァンはその音を聞いただけで、『相手』がこれまでの雑魚とは格の違う存在であることを認識していた。

「『横』へ跳べッ!」

『許す…わけには…いかぬ!』

 凄まじい風圧をもって通路を風の如く駆け抜けたのは、鋭い槍の一閃だった。事前にヴァンの合図で各々左右に回避してた一同は、致命傷や怪我こそ免れたものの、吹っ飛ばされそうになったシノワをレグルスがとっ捕まえている。

 そして彼らは見た。金色細工の豪奢な鎧を身にまとった、顔も体格もわからない亡霊を。

「こいつはヤバい!」ヴァンは叫んだ。「みんな、気を引き締めろ!!」

『オオオォォォォ!!』

 ヴァンこそを一行の指揮官と見たか、亡霊は彼に襲い掛かった。狭い石通路の中ではあったが、ダンスのステップでも踏むようにヴァンは確実に回避していく。間一髪で顔面串刺しをかわし、あるいは胴体輪切りを免れて、ついには。

 轟音をたてて、飛び退いたヴァンが背にしていた玄室への閉ざされた石扉が破壊された。扉を開ける手段を今から探している暇はないだけに、彼がこれを狙って相手の攻撃を誘導していたのは目に見えたことだった。

「メルクリウス!」ヴァンは言った。「みんなを中へ!」

 玄室とは神殿の中心部に位置する、王の遺体を祀るための祭壇だ。特別な例外を除けば、基本的には広間になっていることは言われるまでもなく理解している。

 だが、レグルスとシノワを誘導して中へ駆け込んだメビウスは、自分たちが更なる脅威の内へ飛び込んでしまったことを本能的に悟る。

『おまえたちも…妾の宝を奪いに来たのかえ…?』

 玄室内の空気が、怒りに鳴動しているのがわかった。そこには、自らが安置されるべき石棺に鎮座し、こちらを睨んでいる異形と化した女の姿──。

『渡さぬ…宝も…地位も…すべて妾の物じゃ…!』

 憎悪も極まる、地の底から響く声で感情の堰を切った女が跳んだ。黄ばんだ醜い瞳をぎらつかせ、六本もの腕に冷たく光る宝剣を握り締め、血の気が無いどころか腐敗すら思わせる青黒い肌の女。その顔の中央に、美しく輝く翠の宝玉を埋めた女は、中空から一閃を打ち下ろす。

「キャアアッ!」

 シノワが咄嗟のことに対応できず悲鳴を上げる中、メビウスは手にした錫杖で床を叩き、防護結界を起動した。

 こんなものが隠れていようとは意外だったが、どうせ自分たちの敵ではない。さっさと片付けて、この地に眠る『封印』のひとつを回収せねば──。

 そんなことを考えていたメビウスの思考は、次の瞬間、文字通りぶった斬られることになる。

『虚仮威しがぁッ!』

 女が振り下ろした刃は、どんな大火にも耐え得る強靭さを持つはずの結界をガラス同然に叩き割り、その向こうに居たメビウスの肩口を捉えていた。

「っな…!?」

「メルクさんっ!」

 これで彼が死んだと思ったのだろう。シノワが上げた真に迫る叫び声に、亡霊の相手をしていたヴァンがハッと振り返る。

 反射的に後ろへ飛び退いていたから内臓をやられることはなかったが、驚愕の刹那、衝撃波に対する防御が間に合わず、メビウスは玄室の石壁に背中からまともに突っ込んでいった。何百年閉ざされていたかは知れないが、崩れ去る石壁の煙幕がカビくさいことこの上ない。

「メビウス!?」

 あいつがやられた? そんなバカな──。ヴァンは彼の嘘の名に合わせてやることも忘れて呼びかけるけれど、瓦礫の中から彼が起き上がってくる様子はない。気を失ったか、あるいは本当に──。

「レグルス、トナトナ、アイツの相手は任せる! シノワはメルクリウスを!」

「は、はいぃぃっ!」

 しゃかしゃかと四足歩行型動物のように床を這い、シノワは瓦礫の山へと駆け寄っていく。背後から繰り出された亡霊騎士の一閃をレグルスがしっかり掴み取って競り合いになったことを確かめて、ヴァンは腰のホルダーからマチルダを抜き取ると、改めて女の亡霊へと向き直った。

「あんたが『偉大な女王カカベル』だな」

『……いかにも』女は嬉しそうに答えた。『そちは妾の事をよう知っておるようじゃな、褒めて遣わそう…』

「女王陛下からお褒めを頂戴できようとは恐縮だね。……だが、あんたは俺たちが盗掘者だと知っても、今と同じ態度でいられるかい?」

『この墓所へ足を踏み入れ…妾の忠実な下僕どもを退け…ここまで来たそちらを見てなお、妾がそちらの正体に気付かぬと思うてか…? 侮られたものよのう…?』

「そりゃ失敬」失礼なことをしたなどと微塵も思っていない態度で肩を竦めて、ヴァンは言った。「あいにく俺も、敬意を払うべき相手が誰かはよーく解ってるつもりでね。どうやら、ここにそいつは居ないみたいだ」

『なんじゃと…?』

「『偉大な女王』なんざ、もうここには居ないって言ってんだよ!」

『言わせておけば、貴様あああぁぁぁ…!!』

 怒髪天を衝くとはこのことだ。怒りに目を真っ赤に染めたカカベルが床を蹴り、何本もの刃で襲い来るのを、驚異的なまでに広い視野で捉えていたヴァンは横へのステップで回避する。

  少なくともこの神殿の中において、カカベルが『武人』であったという記録はなかった。ならば戦の心得が無い彼女が剣術において可能な行動は、『斬る』か『突く』ことのみとなる。たとえ腕が複数に増えたとしても、それぞれがぶつからないように向かってくるのなら尚のこと、その軌道は読み易くなるといってもいい。

 さっきの守護騎士にしてもそうだ。大層な怪力こそ持ってはいるが、槍での攻撃など構えが見えれば回避も応戦もそう難しくない。レグルスは冒険家であると同時に卓越した武人でもある。あの大柄な肉体が飾りでないのなら、ヤツの行動を見切るにはそう時間もかかるまい。

 ……ただ、問題は。

(やつらは怨念や執念で動く亡霊だ。本当の意味で『倒す』ためには、魔力や精神に帰属する力が必要になる──)

『おのれ、ちょこまかとぉぉ!』

 完全に動作を見切られ、攻撃のことごとくをかわされたカカベルが、これでどうだとばかりに大振りな一撃を振り下ろす。

「自分の宝は自分で守る」ヴァンは呟いた。「…そりゃご立派だとは思うけどね」

 飛び退いて逃げることなどヴァンには造作もなかったが、彼はあえて踏み込むと、彼女の攻撃の遥か内側──互いに触れ合えるほどの距離にまで入っていた。

 死霊の女王がしまったという顔をした一瞬、彼はふっと、優しさすら感じさせる笑みを浮かべて見せて、言った。

「全部の手が塞がってたんじゃ、こんなふうに、胸に飛び込んで来てくれるイイ男を逃しちまうぜ?」

『……は?』

 思わずぽかんとしてしまったカカベルの腹部に、ヴァンの拳の一撃が決まった。どんな格闘家でもこうはできないというほどの衝撃で彼女の身体は紙屑のように吹っ飛ばされ、先ほどのメビウスがそうなったように奥の石壁に身体ごとぶち込まれる。

 ひゅん、と軽やかな音でマチルダが舞い、カカベルが取り落した剣の一本をヴァンの手元に届けた。手に取ってみればそれは金銀細工を施され宝石をちりばめた、世界の愛好家が唸るであろう素晴らしい宝剣だ。

 よっしゃ、これで借金完済待ったなし! ……彼は、つい握り拳を作ってそんなふうに思ってしまう自分に嫌気がさすような人格ではなかった。

「シノワ! メルクリウスはどうだ!」

「は、はい! 大丈夫です、意識が戻りましたっ!」

 勝った──。返ってきた声を聞いて、ヴァンは早くもそれを確信していた。


「メルクさん、メルクさんっ! しっかりしてくださいっ!」

 必死で呼びかけてもらっているのはとても有難いけれど、如何せんそれが自分の本当の名ではないせいで、戻りかけた意識を何度も闇の底へ引き戻されそうになったのは困ったものだった。それでも肩口の熱い痛みに集中して覚醒することに成功したメビウスは、シノワに助けられながらようやく身を起こす。

「シノワ! メルクリウスはどうだ!」ヴァンの声がする。

「は、はい! 大丈夫です、意識が戻りましたっ!」彼女はそう返し、改めてメビウスに向き直った。「すみません、メルクさん…私、回復魔法はあんまり得意じゃないもので、お怪我がその…全然、治せてなくて」

 怪我──。申し訳なさそうなシノワの言葉に記憶を触発され、彼は肩口に手を置いた。それだけでジンと痺れるように痛むそこは流れた血に染まり、彼の手のひらをじっとりと濡らしている。

 完璧に防御したはずだった。しかし自分はこうなっている。打ち付けた頭を抱えて項垂れたとき、するりと滑り落ちてきた朱の組紐が視界に入ってきて、彼は何もかもに合点がいった。

 そういうことか。これほどまでに私の力を抑え込んでいるのだな、コレは──。

「ク…ッソが…ッ!」

 ガリッと音がするほど奥歯を噛み、メビウスは立ち上がった。傷が痛むたびに、足元がよろけるほどに腹の底が煮える。

 だがこの怒りは、何も『封印』を施したサイガやリュウガに向けたものではない。この世界のあらゆる存在と、ケタどころか次元すら違える神たる自分がここへ下りてくるためには、至極真っ当な措置だと思って受け入れている。

 この私ともあろう者が──許し難しは、そんな『封印』の規格を完全に読み違えていた自分自身であり、そして、そんな油断があったとはいえ自分に血を流させた敵なのだ。

「…シノワさん」それでも理性を失わない彼は、自分を支えてくれていた女に言った。「私のことでしたらご心配なく。あなたはレグルスさんの援護をお願いします」

「はいっ!」

 メビウスは──否、『メルクリウス』は、学者であると同時に魔道士でもある。ならば意識さえ戻れば回復魔法は自分で施すことができる。シノワもそれを解っていたのだろう。でも…などと言って留まるようなことはせず、迅速に自分の役目へ向かっていく。

 ──回復魔法など使いはしない。そんなものに回す魔力すら惜しいくらい、彼はカカベルへ一矢報いることに余念が無かった。

 視線を前へやってみればヴァンの背。そして、その奥の石壁の瓦礫を斬り払ってバネ細工人形のように飛び出すカカベルの姿。

『よくも、妾をコケにしおってええぇぇ!!』

 天井付近まで跳躍した彼女が振り下ろした宝剣は、ヴァンの頭を真っ二つにする軌道だった。しかしそこに、まるで盾のようにすっと割って入るのは彼の腕だ。

『は、そんなものが何に──』

 がぎん! 手に猛烈な衝撃が伝わり、カカベルはたまらずその剣を取り落す。ヴァンの腕は頭ともどもすっぱり斬り落とされる……ようなことはなく、彼女の刃をすさまじい硬度で受け止め、弾き返しているではないか。

『な、なんじゃと…? そんなバカな…ッ!』

 動揺を浮かべた彼女が二度、三度と斬りかかる姿は猛攻と呼ぶに相応しい。けれどヴァンはそのすべてを腕のみで受け流してしまった。もちろん踏み込みに耐える必要があったため、平然と……とまではいかないが、本人はまったくの無傷だ。

『き、貴様…その腕は…!』

 驚愕するカカベルの目の前で、斬り裂かれてはらりと散る布地の下から、黒く無骨な、鋼鉄で形作られた腕が姿を見せる。

「ああ、…言ってなかったな」目元を防御していた腕を下げ、ヴァンは言った。「俺の腕は生身じゃないんだよ。そんな飾り物のナマクラじゃ、傷ひとつ付けられない」

「──ヴァン!」

 背後から呼びかける声に気付き、ヴァンは大きく後ろへ跳躍した。さすがに無数ともいえる武器を持った相手を前に、振り返るような真似はしない。

 着地した彼の隣へ、ぽっかり穴の開いてしまった石壁の中からメビウスが歩み出てきて、並んだ。

「長い昼寝だったな」面白そうにヴァンは言った。「起きてくるまでの暇潰しを考える、こっちの身にもなってくれよ」

「ぬかせ」メビウスは隣を見もしないで言った。「遊び半分で翻弄しているように見せかけて、ひとつしかない切り札の使いどころに戸惑っていたのが見て取れたぞ」

「なら、援護は任せていいんだよな?」

「このパーティの主戦力はおまえだ、花は持たせてやる」

 と言いながら、メビウスは邪魔だとばかりに髪を結う組紐を解いた。解かれたそれはすぐに第二の定位置である手首へ結わえられてしまったものの、赤の肩口にばさりと金糸が散る様は、ある種、艶やかですらある。

「不本意だが、全力で挑むとなれば私の魔力の限界は約五分といったところだ。遊ぶ暇はないぞ、全力で討ち取れ」

 刹那、魅入られたように目が離せなかったヴァンの視界で、メビウスはそう言うと杖を正眼に構えて目を閉じ、詠唱に入った。

「──我がしもべ、我が手足と成りて馳せ参じよ。我に仇成す敵を討て!」

 彼の足下に金色の光を放つ魔法陣が出現したかと思えば、その光がふたりの男女の姿を実体化させた。

 片や厳格な表情をした、青白い髪を長く伸ばした男。そしてもう片方は、薄紅の花の色をした髪を持つ若い女だ。どちらも鬼龍のそれに似た装束を纏っているが、一目で『人間』ではないことに気付かされる。

 目に感情と呼べるものが宿っていない。詠唱の内容から判断して、おそらくメビウスの魔力が形成した、彼の精神の分離体といったところだろう。

『「私」がヤツを攪乱する』ふたりがそれぞれ違った声色で、まったく同じ言葉を放った。術に集中しているメビウスの意識がそのまま入っているらしい。『おまえはタイミングを見て、「切り札」をぶちかませ!』



 五分が限界、か──。

 男女の幻影が床を蹴り、腰の剣を抜いてカカベルへと斬りかかっていく。さすがに武の心得が無いとはいえど、多くの腕を持ち、数多の盗掘者を葬ってきただけに、今更ふたりの相手をすることくらいは造作もないようだ。

 ──否、むしろ幻影たちがそれほど強くない、といったほうが正しい。

 神を名乗る割に、メビウスの魔力や体力は自分たち人間とそう大差が無い。ヴァンは、カカベルの初撃が彼に直撃したとき、彼の言動を疑うのではなく、彼に何らかの封印が施されているのだと直感した。それが、メビウスが本来持つのであろう莫大な魔力や技能を、無理やりこの世界の人間という規格に合わせてしまっているのだろう──、と。

 メビウスはすべてにおいて計算尽くした男だ。それが、不意でもない限りあんなにも無様に吹き飛ぶわけがない。ヴァンたちに戦わせて人間の能力をはかろうとしているのだとしても、自分の身を呈するのはあまりに効率が悪すぎる……理由として、ヴァンはそう考えている。

 ならば、あの『召喚』された男女の幻影も『本来の強さ』は発揮できまい。あれはきっと、本当ならどこかに居るはずの『本人』を召喚する術なのであろうが、『封印』のせいで、メビウス自身の記憶にある姿を幻影化し、自身の延長として行使するのがせいぜいのものと化している。

 そして、それを行使できる限界がたったの五分間なのだ。

(──つくづく、似た者同士だよな。俺も、あんたも)

 ヴァンの口元に、深い笑みがゆっくりと滲む。嬉しくて、嬉しくてたまらないその笑みは、背筋がぞっとするような歓喜だった。

「相棒!」ぴゅん、と飛んできたアジーンが言った。「なに突っ立ってんだ、メルクの加勢にいくぞっ!」

「ああ、言われるまでもないね! ──アストラル・エンジン全開!」ヴァンは鋼鉄の腕を振りかざし、『解放』の言葉を叫ぶ。「五分限りのパーティータイムだ、俺の全力を見せてやるぜ!」

「俺様も力を貸してやる! 行くぜ相棒!!」

 先陣を切ったアジーンが、幻影らと競り合うカカベルの頭上へとカッ飛んでいく。誰にとっても真上は最大の死角であると同時に、そちらへ注意を取られた瞬間、何もかもがガラ空きになる。視界を掠めた黒い影につられて目を上げたカカベルの胴に、ヴァンの一撃が決まればそれで終わる──はずの話だった。

 複数の腕は伊達ではない。カカベルは目こそ上へやってアジーンの姿を確認しようとしたが、その隙を狙って斬り込む幻影らには、視界の外ながらも手にした宝剣を振るって牽制した。

 縦横無尽に繰り出される攻撃には法則性も何もあったものではなく、同じタイミングで突っ込んでいたヴァンもさすがに腕を盾に防御せざるを得ない。そうして女の幻影が腕を斬り飛ばされ、実体を維持できなくなり消失してすぐ、女王はこの忌々しい術の主──メビウスへと殺意にぎらつく目を向ける。

『面倒な魔道士め、まずは貴様じゃ!』

 瞬歩に等しい速さでメビウスを刺し貫くべく突き出された刃の前へ割り込むのは、残っていた男の幻影だ。ガァン、と鈍い金属の衝撃音とともに幻影は薙ぎ払われ、同時に魔力の集中が切れたか、霞の如く消え去っていく。

 次の瞬間、場に響き渡ったのは肉を裂く惨い音などではなかった。術が解けるや、メビウスは手にしていた杖で続く攻撃を受け止めている。

「まずは私だ、と言ったな?」メビウスが言った。魔力を使い切って疲弊した競り合いという不利な状況下で、歯を食いしばりながら、それでも笑って。

「……好都合だ」

『なに?』

「私も貴様には、直接手を下しておきたいと思っていたところでな!」

 シャリッ。メビウスが構えていた杖が鋭い音を立てて上下にズレたかと思えば、その中から姿を見せたのは研ぎ澄まされた白銀の刃だ。

 仕込み杖だと、この男──。咄嗟の危機感すら思わせるメビウスの殺気に気圧され、カカベルが慌てて後退しようとしたところで、彼女の腕のひとつをわし掴みにするのはヴァンだ。

「あんたの相手はこっちだっ!」

 その叫びと共に、ヴァンはカカベルを身体ごと振り上げていた。火事場の馬鹿力と称して相違ない馬力だが、これは別に彼がそこまで必死になっているからではなく、彼の腕に仕込まれたオーバーテクノロジーが成せる現象である。

 ヴァンの強靭な精神力に後押しされ、カカベルの肉体が砲丸投げのように宙に舞う。空中ではさすがの彼女もろくな動きはできない。翼がないヴァンとてそれは同じだったが、彼には今、何者も敵わぬ無敵の怪力がある。

「あんたの居場所はもう、ここにはない! 大人しく天国へ行くんだな!」

『嫌じゃ…!』カカベルは切れるほど唇を噛みしめ、そして火がついたように叫んだ。『嫌じゃっ! 妾こそは女王カカベルぞ! 誰しもに勝り、何者も及ばぬ偉大なるアスティ・カーンの女王じゃ! 妾の宝は妾の物、誰にも渡しはせぬ!!』

「そういうのを──」

 ぐっと低く身構えたヴァンは、その反動で思いきり床を蹴って跳躍した。彼女がでたらめに振るう刃を片方の腕で受け流し、あるいは鋭い衝撃波が頬や胴を掠めていく小さな痛みをくすぐったくさえ捉えながら、彼は渾身のエネルギーを貯め込んだ拳を撃ち出す。

「往生際が悪いっていうんだよ!!」

 カカベルの額にキラリと輝く宝玉は、これ以上ない目印になる。ヴァンはそれを狙って彼女を殴り飛ばしていた。古巣の酒場を何件となくぶっ壊してきた義手のパワーはお墨付き、身に着けていた宝飾がいとも簡単に砕け散った刹那、衝撃波にも似て放たれた精神エネルギーが、玄室を呑み込むほどの範囲で爆発を起こす。

 ギャアアアァァァァ──!! カカベルの絶叫が玄室に、通路に、墓所を揺るがし響き渡る。すでに死している者であるなら、その最期の叫びは、断末魔と呼ぶに能うまい。

 同時にレグルスとシノワが相手取っていた亡霊騎士の動きがピタリと留まった。……否、何かを訴えるようにカタカタと震えてはいたけれど、何を言うでなくガシャンと倒れて崩れ、中身が空洞になっていることが確認された。

 精神エネルギーの大放出は、肉体疲労に関係なく尋常ではない疲弊を招く。空中で力を出し切って、無事に着地するだけの体力さえ残っていなかったヴァンが落下しかかったところで、ここぞと飛んできたアジーンがその襟首をとっ捕まえ、そっと床に下ろした。

「サンキュー、アジーン」起き上がるだけの気力もないまま、ヴァンは小さく笑って、弱く言った。この仔竜に感謝したのは初めてのことかもしれない。

「なんのこれしき! やったな相棒!」

 アジーンはぴゅんぴゅん飛び回り、ヴァンの勝利を我が事のように喜んでいる。そんな様子を、可愛いところもあるじゃないかと思って眺めていたら、視界に赤い影がぬっと入ってきた。

「メビウス──」

 ヴァンはその鉄腕のおかげで目立った怪我はなく、着衣が多少切り裂かれた程度で済んだけれど、メビウスの状態はなかなかにひどい。骨や筋の断裂こそ免れているが肩口の傷は深く、彼が回復魔法を使えないのなら早急に手当てをしてやる必要があるだろう。

「ヴァンさん、メルクさん!」シノワが慌てて駆け寄ってくる足音がする。「ご無事でしたかっ!?」

 痛みなどまるで感じていないかのように、冷たく敵意に満ちていた切れ長の赤い目が、ヴァンのそれと合ってややの間を置き、ふっとスイッチを切り替えたように笑った。文字通り『嘘の貌』に戻った表情だ。

「お疲れ様でした、ヴァンさんっ」

 そんなことを言う声色が、こいつの『本性』を知っているヴァンにとって胡散臭いことこの上ない。自分よりひどい有様のくせ、平然と笑って難を逃れたほうの手を差し伸べてくる彼の──『メルクリウス』の態度に、どういうわけだか無性に腹が立ったヴァンは、あえて目の前の手を無視して、その奥でだらりと垂れ下がっていたほうの腕をとっ掴んでいた。

「いっだ!!?」

 さすがのメビウスも、まさかそんな仕打ちを受けるとは思ってもいなかった。傷口がヴァンの体重を受けた一瞬、たまらず情けない悲鳴が口を衝く。

「シノワ」そうやって起き上がったヴァンは、入れ替わりにうずくまってしまった相手のことも、そして疲弊しきっている自分のことなど構わず言った。「メルクリウスの手当てを頼む。魔力が回復するまでの応急処置でいい」

「わかりましたっ。──レグルスさん、メルクさんを神殿の外まで運んで頂けますか?」

 奥歯を食いしばって恨みがましく自分を睨んでいた目が、まさしく蛇の眼光がごとく『覚えとけ』と如実に語っていたような気がするけれど、ヴァンは気にしないことにした。身体は重いが、気分は何とも清々しい。ふっと小さく息をついて玄室を振り返ってみると、床に座り込んだアジーンの丸っこい背中が見えた。

「おいアジーン」ヴァンは言った。「何やってるんだ?」

「んぉっ?」仔竜は何やら口をもごもごさせながら振り向き、ブンブンと首を振る。「ぁんでもないぉっ」

 何でもないぞ、と言っているらしいが、口に何か入っているせいでまともな言葉になっていない。こいつは貴金属や石棺を食べてしまう性質ではないから気にする必要は無さそうだが、腹を壊しても責任は持てないところだ。

「とりあえず、俺たちも外へ出よう。この神殿の調査は、これから来る鬼龍の調査団の仕事だからな」

「んっ」

 返事がまるでサマにならない。後ろをちょこちょこついてくるアジーンの様子を肩越しに見やりながら、ヴァンはちょっと情けなくなって溜息などついてしまった。


「ヴァンおつかれ! このジュース、トナトナがつくった! 栄養満点、疲れがとれる!」

 外へ出るなり出迎えたトナトナが差し出してきたのは、何ともえげつない色をした液体だ。紙カップはシノワが持ってきたサバイバルキットの常備品だろうが、中身は天魔北部地方名産のグレープジュースを何倍も濃くしたようなシロモノだ。

「あ、ありがとうトナトナ…」

 さすがにこれをアジーンやメビウスに押し付けるわけにもいかない。引きつり半分に礼を言ったヴァンは、服毒にも等しい覚悟を決めてそれを一口含んでみる。

 ──案外すっきりと甘い果実の味がした。それまでの何ともいえない表情を一転させたヴァンを見て、トナトナは満足そうに笑う。

「ヴァンさん、メルクさんっ。さすがでしたね、おふたりとも!」シノワが嬉しそうに言った。「これで、ここで倒された調査隊の無念も晴らされるでしょう。本当に、ありがとうございました」

「礼を言うのはこっちのほうさ」ヴァンは言った。

 おかげさまで、今までの引きこもり生活で立派に育ってしまった忌まわしき借金が、全額チャラになりそうなお宝をゲットすることができたのだ。シノワはいっそ人生の救い主と言ってもいいくらいだ。

「……でも」

 と、不意にシノワがうつむいた。肩口に小さな治癒魔法を施していたメビウスが顔を上げ、爽やかな気持ちで蒼天を仰いでいたヴァンもまた、どうしたのかと彼女に目をやる。

「こんなことをしていると、たまに私は、自分がどうしようもない悪者のような気がしてしまうことがあります」彼女は言った。「静かに眠っている死者のお墓を暴いて、大切にされていた宝物を奪って、遺体すら見世物にして──」

「そりゃ違うな」

 あっさりと即答でヴァンは言った。シノワがエッと顔を上げると、彼は肩を竦めて笑う。

「この大陸で、過去にどんな文明があったのか。どんな人間がいて、どんな技術で暮らしていたのか。埋葬された遺体や墓所の建造方法なんかは、そういうことを知るための指針さ。見世物だなんてとんでもないね」

「……そのとおりですよ、シノワさん」メビウスがぽつりと言った。まだ傷は癒え切らないのか、弱く笑って見せる。「『過去』は、あなたたちが生きている『現在』の礎なんです。どんな存在にも歴史とルーツがあります。それを調査し、解明せんとするご自分の仕事に、もっと自信を持ってください」

 ヴァンはメビウスに会うまで魂の転生だの何だのといったオカルトじみたことは信じてもいなかったが、改めてこうして『神』や『亡霊』に出会って考え直してみても、結局のところ誰もが死ねばそれで終わりだという事実は変わらない。

 肉体が死に、別たれてしまった魂は二度と同じ肉体には戻れない。どんな存在にも永遠は無い。古代の墓所を調査することが『墓荒らし』だの『罰当たり』だのなんて、ヴァンに言わせれば時代遅れで宗教じみた思想論もいいところ、現世の栄光に囚われ、カカベルのように醜く爛れた姿に変貌してしまった魂には、『敬意』をもって然るべき措置をすべきなのだ。

 先の論にのっとって放置などしようものなら、彼女は永遠に次の人生へ進めない。どちらが『魂』という存在にとって憐れなことか、考えるまでもないことではないか。

 それに──。

「……さすが、ベテランさんは言うことが違いますね」参りました、とシノワは笑った。「私は今回の調査で、かつてここにカカベルさんという人がいらしたことを知れたんですよね」

「ああ」ヴァンは頷いた。「誰も知らなかった閉じた歴史に、真っ先に触れることができるんだ。これだから冒険家はやめられないのさ」

「及ばずながら私、お祈りしますっ。カカベルさんが、来世でも、現世と同じくらい幸せに生きられることを!」

「そうだな。それがいい」

「それじゃあ私は、改めて神殿内部を簡単に調査して、鬼龍に送る書類の制作にかかりますからっ。皆さんはとりあえずこちらで休憩なさっていてください」

「気を付けろよー」

「はーいっ」

 カカベルの昇天をもって、神殿各所を守護していた魔獣やタチの悪い呪われた封印の類は消失している。今のここはもぬけのカラといったところだ、シノワひとりでも、石ころに足をとられてすっ転びでもしない限りは安全だろう。

 再び薄暗い墓所へ駆け込んでいく彼女の背を見送って、ヴァンは神殿を仰ぐ。

 大きく、高く、そびえるようなそれはカカベルの権威を示してやまない。

 けれど──。

「……彼女は、ほんとうに幸せだったのかな」

 ぽつりと呟いたヴァンの言葉に、メビウスとレグルスが彼を見やった。

 墓所には、カカベル以外の『人間』は葬られていなかった。王族の埋葬には、その従者が生贄のような形で、ともに埋められるケースが多い。現代では考えられないことではあるが、当時はそれが当たり前だったのだ。

 『あの世』へと旅立つ王に宝飾と従者を『持たせて』、『向こう』においてもその権威をもって丁重なもてなしを受けられるように──それはどこまでも閉じた世界観と思考回路だが、かつては世界が丸いことを誰も信じてなかったように信じられていた。

 だが、カカベルが固執したのは『女王』という立場と『宝』だった。神殿に凶暴な魔獣を配置し、石碑の記すところによれば守護騎士ですら異邦の勇者を術にかけたものだという。自分の『身内』となる者を誰一人として傍に置かず、たった独りあの玄室の中、輝く財宝だけを守り続けてきたのだ。

 彼女は誰も信じていなかった。──そんな気がしてならない。

「…過ぎたことだ」レグルスは言った。「誰にもわからない」

「──ですね。あなたが今更何を考えてみたところで、憶測と推測の域を出ません」目を伏せ、笑いまじりにメビウスが言った。「それに、あなたがたが成すべきは、彼女を中心とした王国がどのようなものであったかを明確にすることで、彼女の在り様を空想することではありませんよ」

「ここ、むかし、すごい王国があった! トナトナ、じいちゃんに聞いたことある!」と、ヴァンの足元にやってきたトナトナが両手をパーッと広げていった。「ヴァンが聞きたいなら、トナトナ、たくさん話してやる! アスティ・カーンの昔話!」

「ああ、サンキュ」悪ガキのように笑って見せて、ヴァンは言った。「すごく参考になりそうだ。…とりあえず今は、中でシノワに昔の文字や絵なんかのことを教えてやってくれるか?」

「よしわかった、いってくる!」

 純粋な子どものように自分を慕ってくるだけ、アジーンよりも使い勝手が──否、扱いやすい……いやいや、頼りになる。思えば魔獣に襲われていた時も、まだ少年だけに粗削りと言わざるを得ないが、石槍の扱い方はなかなかにスジがよかった。訓練次第では結構な使い手になるかもしれない。

(…ああ、そうだ)

 誰しもに『未来』はある。だからこそ、懸命に今を積み重ねて生きていく。墓を暴くことに『眠りを妨げる』なんて言葉を使う者がいるが、誰しもに眠っている暇など無いのだ。死ですらも次へのステップそのもの、そこでずっと留まっているなんて、……まだ見ぬ未来を求めないなんてどうかしている。

 改めてどこか自嘲気味に笑ったヴァンは、墓所に背を向け、眼前の、広大な未知なる大陸を見渡した。それだけでもう『次』への期待に鼓動が高まるこの想いを、彼は、それこそ自分も知らない新たな世界へ旅立ったカカベルへ馳せる。

 来世こそは、化けて出る余地もないくらい『人生』を愉しめよ! ……と。




                               to be continued...(2018/02/20)