テセウスの



 彼は、彼を導いてくれたすべてのものに感謝している。


 彼を拾った名もない小さな村は、数年に渡り大旱魃に見舞われた貧しい村で、食うに困って人道を踏み外したこともある者らの集まりだった。だから余所者に過ぎぬ彼もまた、その首を掻っ切られて、短い生涯を終えるはずであった。

 ところが、そうはならなかった。彼が村に連れて来られて間もなく、村は幾度もの雷雨を伴う大嵐に晒されたのだ。朽ちた家屋は崩れた物も多く人々は一時嘆きもしたが、生きるためには泥を啜ることもあった村人たちは一様に、半ば崩壊した村を見て、山から流れてきた土砂によって大いに潤った土地を見て狂喜に沸き立った。

 若者も老人も、幼子を抱えて肩身の狭い思いをしていた女さえも立ち上がり、村の者らは土地を耕して作物を植え、懸命に世話をした。そんな様子が風の報せか外部にも伝わり、遠い街からも援助の手がやって来るようになった。

 かくしてその村は、山と繋がった水源と豊かな土壌に恵まれた、作物の産地として一年と経たず名を馳せることとなる。

 彼はそこで、村の復興を否応なく手伝ううちに様々な知識を得た。木の組みかた、水の濾しかた、作物の種類やヒトの摂理。そして──。

「思えば、こいつを拾った夏だったな。恵みの雨が来たのは」

「余所者なのに、文句ひとつ言わずに手伝ってくれたぞ」

 下手をすればこの土地の者らは、彼を本当の意味で取って食うつもりでいた。けれどそれを実行に移すことを阻むようにやってきた嵐に気を取られ、のちに晴れ渡る空の下で煌めく大地を見た感動のあまり、そんなことついぞ忘れてしまっていた。

 よくよく見てみれば、彼は眩いばかりの金色の髪と、血の雫を映し取った赤い瞳を持つ異国の子で、幼さゆえに少年か少女かも見分けがたい中性感を持ち合わせていた。だから人々は余計に、そんな特異な外見を持つ彼を大層大事に扱った。

 彼はそうして学んだのだ。

 成したことには、必ず何らかの見返りがあることを。

 他者と交わり、関わり、手を取り合うことで、自身をも含めたより多くの者が幸せに生きる道がいくらでも拓けるのだということを。

「おい、おまえさん。名はあるのかい?」

「……」

 彼に名など無かった。正確に言えば覚えていなかったわけなのだが、知る術がないのなら無いも同じだ。彼がどうしたものかと一瞬沈黙したとき、不意に誰かが自分のことを呼んだような気がして。

「……メビウス」

 彼は、その名をそのまま口にしたのだった。



「──師匠。こちらでしたか」

 ライセンの声に呼び寄せられるように、メビウスの意識は現実に戻ってくる。

 目を開いて顔を上げれば、すぐ傍らに立っている龍族の男の姿。厳しい表情をしていることが多いけれど、その目が、その声が本当は誰より優しいものであることを彼は知っている。

 ……でも、それが自分にだけ向けられているものであることを、彼は知らない。

「すまない、探させたか」メビウスは言った。

「いえ」ライセンは言った。「いつ何者の襲撃も無いとは言い切れぬ場所です。気配を絶たれるべきは至極当然のこと。お気にされませぬよう」

 天界への侵入を果たしてたった数日で、彼らはもう一生分ほども戦いに明け暮れた。少し離れたところにある野営の本拠では、続く連戦に疲れ切ったアークやアポロが、シオンの監視のもと深い眠りについている。

 中でも天聖騎士団との戦いは、それまでの、雑魚にも等しい下級天使たちのとそれとは一線画するものとなった。それというのも、軍を率いていた者の存在が、誰の想像をも絶していたせいである。

「あの、サイガという男」メビウスは言った。「おまえの弟子だと?」

「はい」ライセンは神妙に頷いた。「我が弟子が、よもやあなたに刃を向ける事態となろうとは、私も想像だにできず……この非礼、如何様にお詫びしてよいものか──」

「詫びなど要らん」

 あのサイガなる者が、ライセンのこともシオンのことも覚えていない様子であったのは明白なこと。知った上で挑んでくるならまだしも、『知らず』やっていることでライセンに責任を問うなんてバカなことは考えもしない。なのに真っ先にそんなことを言い出すこの男には、半ば呆れさえしてしまう。

 サイガは『王』を名乗っただけあり、そしてライセンの弟子というだけのこともあって、集団戦にも個人戦にも非常に長けた手練れであった。いつから天界に属していたのかは知らないが、騎士団の癖を正確に把握し連携することに優れ、何とかしてサイガだけは傷付けぬように戦おうとするライセンとシオンの手を幾度止めたことか知れない。

 サイガとは何の因縁もないメビウスならばあるいはサイガを討つことができたかもしれなかったが、ライセンらの懸命な戦いぶりを見るにそうもできず、騎士団との戦闘は最大戦力であるはずのメビウスが前線に出られないという、非常に不利な戦局となったのだ。

「……おまえも大変だな」メビウスはぽつりと言った。

「勿体ないお言葉です」ライセンは丁寧に、相手の同情を返上する。「お気持ちだけで、私には充分すぎましょう」

「なんだ。この私がせっかく労わってやろうとしているのに、おまえは言葉すら素直に受け取ることもできないのか?」

「お気持ちだけで充分だと申し上げたのです」ふふ、と苦笑いを交えて、ライセンは不服そうな相手に言った。「あなたが、そうして私を──自分ではない他の誰かを労わろうとなさられる。その心向きを感じられるだけで、私は救われる思いですから」

 これが、このライセンという極めて不可思議な男だ。

 メビウスがこの男の『存在』に気付いたのは、物心ついて間もなくのことだ。春の陽射しのように温かく、時に自然界よりも厳しく、メビウスはこの男に『導き』を受けてきた。

 気が付けば見知らぬ土地の見知らぬ場所へ放り出され、それまでのことは記憶になく、自分が何者であるかも判らない幼子に過ぎなかった彼が、山で、河で、あるいは街や村で何物の餌食にも成らずに済んできたのは、ひとえにこの男の『守護』によるものだ。

 初めて集団生活なるものを行なった村での『奇跡』にしてもそうだった。居場所と名を与えられ、矢のように過ぎ去る季節の中で、彼は持ち前の強烈な好奇心から数多の知識と技術を身に着け、やがて自分に秘められた最大の可能性──魔力に目覚める。

 医師や技師といった、時に様々な職を経てヒトに深く関わり合う中、『命』という摂理にまで踏み込んだメビウスは、世界中の学者が未だ至れぬその真理を己が内で解き明かしてしまい、魔力によって生命を活性化させ永遠を生きる術法を編み出すに至った。

 そして。

 今の私になら、できるのではないか──。あの村での生活からすでに数百年の時を経ていた彼は、ふと思い立って新たな術を開発する。

 それは、己の魔力を介してあらゆる意志や概念に形を与える力。長きの孤独に耐えかねて風に少女の姿と薄羽を与え、水に女の容姿と三叉を与えることにはすでに成功していた。ついに彼は、長らく自分と共に在った『その意志』に実体をもたらしたのだ。

 それは、大きな龍の角を頂く厳格なる男。眩い光の中で対面を果たした時、メビウスはそれを神か何かだと思った。医学や科学に関わり過ぎて、そんなものは信じてもいなかったのに。

『──師匠』

 と、その龍神は言った。その言葉が自分のことを指しているのだと気付くまで、軽く数分はかかったはずだ。

『こうしてまた、あなたとお会いすることができようとは。……このライセン、これ以上望むことはありませぬ』

 自分の前に膝をつき、深く、深く首を垂れるその男の言動が、メビウスにはまるで理解できなかった。

 ずっと守ってもらって、ずっと愛してもらってきたのは自分だ。本当なら自分のほうが感謝の言葉を述べ、頭を下げたいくらいだったのに。

 ただそんな夢幻のような出会いも、日を経るにつれて後悔に代わった。

 とにかく口うるさいのだ、このライセンという男は。

 生活習慣に始まって、食生活に就寝時間、挙句ちょっとした散歩にすら、心配してついて来ようとする始末。彼は自分の崇高にして気高き守護神に形を与えてみたかった好奇心で術を編み出し使用したけれど、自分の『母親』を作り出した覚えはない。

 魔力によって命を永遠とし『人間』を辞めて随分になるが、人間であった頃にはあらゆる人々から神童だ天才だ神様だと持て囃されたことに因して、自己中心的で傍若無人な言動が完全に定着していた干渉嫌いなメビウスがキレるまで、そう時間はかからなかった。

 しかし今もこうして、このふたりは共に在る。

 何故かといえば単純なこと。口論など何度したことか知れない。だが、どうしても勝つことができなかったのだ。言い負かされるのはいつもメビウスのほうで、よりにもよってライセンは彼の性格や悪い癖を本人が引くほど把握していて、最終的にはいつもメビウスのほうが自分勝手を自覚して反省する結果になるのである。

 おかげさまでライセンに会う以前、人間たちの勝手な称賛によって構築された余計な自尊心なんてものはとっくの昔に崩壊している。当時の心持ちのままでは、自分はいったい何をしでかしていたことか──そう思えば、感謝もしている。ただライセンのほうも、度重なる口論の中でメビウスの趣旨を学んでくれているらしく、当初のような過度な干渉はなくなっている。

 ……当時は『母親』を作ってしまったような気がしていたが、今は『嫁』を作ってしまったような気がしていることを、彼は口に出したことは一度も無い。

 そして彼にはもうひとつ、今まで胸の内に秘めていた思いがひとつある。

「なあライセン」

「はい、師匠」

「とある船があったとしよう。木造の帆船だ」メビウスは言った。「そいつは、時を経れば老朽化するだろう。そうやって弱って古くなったところを新しい部品に取り替える。今度は長持ちしそうな、金属製のやつがいい」

「……はい?」今ひとつ相手の言い分を理解していないのか、ライセンは曖昧な相槌で先を促す。

「最終的に、船はより多くの人間と資材を運ぶことができる、丈夫で立派な動力船となる。……さて、ライセン。この船はそうなってもまだ、かつての貧相な帆船と『同じ』であると言えるのかな?」

 しん、とライセンは黙り込んだ。

 相手が何を言わんとしているのか、何となく察したようだ。

「……おまえは、私が知らない私のことも知っているな」メビウスは立てた膝に顔を伏せ、相手を見ないようにして言った。「昔はそんなもの信じてもいなかったが、私自身がソロモンに魂を繋いだ今なら解る。『私』は、おまえの『師』の生まれ変わりなんだろう」

 問いかけではなく言い切りを使ったのは、完全に確信していたからだ。

 ライセンもシオンも、一度としてそんな話題を口に出したことはないし、メビウスも訊ねたことはない。だがそれは、先の二人が決して口にするまいと決めていたからであり、そしてメビウスもまたそれを訊いてはならぬことなのだと察していたから成り立っていた均衡であったのだ。

「でもな、私はおまえを覚えていないんだ」メビウスは言った。「おまえを初めて見たとき、懐かしいと感じることさえできなかった。おまえの言葉の意味を、理解することもできなかった」

「師匠──」

「だから、やめてくれ。私を『知らぬ名』で呼ぶのは」

 今度こそ、ふたりの間に無音が落ちた。

 髪も、声も、目も、どこまで過去の自分と同じなのかはわからないし、知りたいとも思わない。些細なきっかけでフラッシュバックする程度に覚えているなら、どこかでライセンを懐かしく感じることさえできていればまだ少しは違ったかもしれなかったが、何といっても全く知らないのだからどうしようもない。

 唯一無二であるはずの『名』ですら、過去の記憶を振り返るに同じものだ。メビウスにとっての今の自分は、生まれてくる前どころか、出生も親の顔も本当の名すら知らぬ完全なる新規の人格なのだ。前に居た、自分と同じ存在と一緒にされるのは御免被る。

 こんなところで、こんなときにするべき話ではないことも承知していた。けれど、あのサイガという男を見て、彼に記憶がないことを知って、それでも従者たちが説得しながら必死に戦う姿を見て、極めて複雑な心境になったのは確かなのだ。

 傍に立っていた気配が動いた。わずかに目を向けてみれば、ライセンは片膝をつき、メビウスをそっと覗き込んで口を開いた。

「あなたの魂は、紛れもなく『あなた』です。身体も記憶も経験も、何もかも新しくなってしまったとしても、あなたは決して変わらない」

 ライセンからしてみれば、こいつがこんなことを言い出すこと自体が、メビウスらしすぎて嬉しいくらいだった。

 だいたい、メビウスは『前に居た自分』のことを『私の知らない私』というけれど、性格はまったく変わっていないと言ってよかった。これまでライセンとの口論でことごとく図星をさされ、それを悪癖であったり非のある思考であると自覚できている時点で、それは『知らない存在』なんかでは断じてないのだ。

 かつての魔力と記憶は確かに消えた。けれど、いかに調和神の力をもってしても、魂そのものが持っている『ベクトル』は絶対に変えられるものではない。現にメビウスはライセンに肉体を与えるまで、過去とそう変わりない人生を歩んで来ていたのだから。

 言動も、魔力の紡ぎ方も、その使い道も。彼が完全に『新規』の存在であるというなら、この類似点──否、同一性はどう説明すればいいというのか。

「あなたに記憶など無くとも、あなたの力は私の師……」ライセンは己の胸に手を置き、誓うように言った。「言うなれば、あなたの魂こそが我が師『メビウス』なる存在なのです」

「私の……魂…」メビウスはおもむろに持ち上げた自分の手のひらに目を落とした。半ば呆然としていたその表情が、不意に目を伏せた笑みに変わる。

 仮にすべての部品が新規のものに差し代わったとしても、あるいは名すら変わったとしても、あるいはその船が過去に木造の帆船であったことを知る者がいなくなったとしても、『事実』は絶対に変わらない。その新型の動力船がかつて帆船であったことは、その『存在』が覚えている。

 ああ、そうか。そういうことだったのか──。

「あなたが幾度生まれ変わろうと、幾度私を忘れようとも、私はあなたと共に在りましょう」

「……それは無理だな」

 笑いまじりにきっぱりと言い捨てた相手に、何を思ったかライセンはハッと息をのむ。そんな相手に、顔を上げたメビウスは「だって」と肩を竦めて言った。

「私はもう転生なんかしない。この記憶も経験も、二度と消えることはないだろう?」

 はじめこそぽかんとしていたライセンだったが、やがて安堵にも近く息を吐くと、噛みしめるようにハイとひとつ頷いた。

 メビウスがした最後の選択は、自らが作り出した理想の『命』であるソロモン大陸との同化だ。輪廻へ還ることなく、大陸の守護神である三賢神ですら危機に陥るほどの事態には自らが目覚めるようにと魂に術式を施し、仮初の眠りにつくことであった。

 形式こそ『転生術』となっているが、それは実質的には『復活』であり生まれ変わりというわけではない。そうなることで、彼は誰に望まれるでもなく狙うでもなく、名実共にソロモン大陸の神と成ったのだ。

 魂という概念において無限の未来を約束する転生を捨て、自身が作り上げた世界と永遠に共に在る──いっそ獄に繋がれる罰にすら見えるその行動でさえ、かつて羅震獄を支えるため、誰の目に触れることも望まず人柱に等しい立場へ進み出たあの頃と何も変わらない。

 メビウスは、自分にはまったく記憶がないから過去とは何の関係もないと言ったけれど、それは完全に逆なのだ。かつて彼の身に起こったことを顧みるに、フラッシュバックや懐かしさといった些細なものすら感じないほどに『記憶がない』ということ自体が、彼がまさしく『メビウス』であることの証明であった。

 はじめから知って、解っていたことではあったけれど、それでも。

 あなたは『あなた』だ──。それが、どうしようもなく嬉しい。

「御気は、晴れたようですね」ライセンは言った。

「ああ」メビウスは頷いた。「悪いな、変ことを言って」

「いいえ。──きっと、誰にしも一度はある葛藤だと思いますので」

「……滅多にないことだと思うんだが……?」

「さあ、師匠も少しはお休みになってください。明るくなれば、まだどこから迎撃が来るとも知れません。休める時に休むことも大切な戦略です」

「わかったよ。周囲への警備は任せるぞ」

 膝に手をかけヨッと立ち上がると、メビウスはシオンの待機する野営のほうへと戻っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、ライセンは『今』という時間に感謝せずにはいられない。

 記憶がないことに対し、その空白部分を知る者へ問いをかけたように哲学的にも思考の深いメビウスのこと、今の彼を『正しく歩んでいる』などと言えば『何をもって正義とするのか』と面白そうに問い質してくるだろう。

 実際のところ今のメビウスは、ライセンが抱く『理想』の『正しい道』を歩む者であって、そういう観点からすればこのライセンがしていることは、かつて相容れることのできなかった師との埋め合わせという自己満足……あるいは、袂を分かった絶対的に価値観の違った相手を今度こそ自分の思うままにせんとする欲望にも近しい行動といえよう。

 だがそんなことは、今更言われるまでもなくとうに自覚している。

 前に居た彼の選択や決断が誤っていたと言い切るつもりはない。けれど、以前と今、どちらの彼がとった行動もほとんどが似たり寄ったりであり、完成度で言えば後者のほうが圧倒的に高く精度も良い。

 ヒトは、決して独りでは生きられない。ならば万能の力を持っていても独りで何もかも手に入れられると『驕って』しまった以前の彼と、万能の力は自らに関わった多くの存在から授けられたものであると定義した今の彼の間にあるのは、そんな些細にして絶対的な違いだ。

 少なくともライセンは、そうした『他者との繋がり』を大切に考えることだけは、どんな観点においても間違いではないと言い切ることができるのだった。

 野営の火に照らし出され、自身の足下にまで長く伸びた師の影に跪き、雷帝なる男は誓いを新たにする。

 もう二度と間違えたりはしない。

 今のあなたが選ぶ道ならば、私はどんな『永遠』でも受け入れてみせよう──。




                               to be continued...(2017/11/01)