Scarlet Eyes



 不意に浮上した意識に合わせて目を開いて、今の時間がまだ真夜中だったことに気付いた時、ヴァンはぎくりと身が竦んだ。

 すぐに薬が切れたことに気付くけれど、今からもう一つ飲み下すことはできない。オニキスによって処方された彼専用の睡眠薬は、ヴァンの精神状態が比較的落ち着いている時でなければ効果を発揮しないのだ。

 ──というか、睡眠導入に関するだいたいの薬がそうである。過度な興奮、極度の焦燥状態にある者に投与すれば神経に多大な負担を与えてしまう。自分を取り囲んだ闇に本能的な──否、反射的な恐怖を感じてしまった今の彼には、もうまともに効きはしない。

(だめだ)

 咄嗟に自らを戒める言葉を胸の内に念じ、彼は呼吸を整えようとするがどうしてもうまくいかない。

(だめだ、考えるな、考えるな──)

 腹の底から身が震え、肩口に、腕に指先に伝播する。見るともなく自分の手のひらに目を落としたヴァンは、自分がヒッと息をのむ音を他人のそれのように聞いた。

 重く冷たい、金属の腕。カタカタと震える指先を無理に握り潰すと、特有の作動音がした。

(ああ、……ああ、いやだ──)

 万人に安らぎの眠りを与えるはずの夜。

 それを妨げることのない静寂、そして深まる無音。

 何もかもが嫌だ。

 聞いてしまう。

 聞こえてしまう。

「……眠れないのかい、ヴァン?」

 そっと背後から伸びてきた両腕が、そっとヴァンの身体を包んだ。耳元で甘く優しく囁く声と、背に密着する体温に、刹那、ぞっとするほどの安らぎがよぎる。

「ゼル──」

 振り向いたそこには、何もない。

 ヴァンは壁際に置いたベッドで壁を背にしていた。そこに誰かが居るなど、そんなことがあるはずもない。

(いやだ)

 何が嫌なのか、わからない。

(ここにいたくない)

 彼はその一心でベッドを離れ、自室を出た。何度も力加減を誤ってノブを掴み損ねたり、手を滑らせたりしながら、やっとのことで。

 と、恐怖心に煽られるまま屋外にまで出ていきかけていたヴァンの感覚が、人の気配を感じ取っていた。

 こんな時間に、ジゼルであるはずがない。彼女は近ごろヴァンの帰宅に合わせて、アジーンとドクロウくんに囲まれて、安らかで静かな眠りを得ているのだから。

 上手く焦点を合わせられない彼の目が、それでも捉えたのは、今ではもう使わなくなっていたはずの部屋の扉。

 ほんの数日前に、そこの掃除をした。

(なんでだっけ)

 使えるようにするためだ。

(なんで? アデルはもういないのに)

「ま、ヘンな虫なんかわいてないとは思うからさ、適当に使ってやってくれよ」

 声をかけながら振り向いたヴァンは、その戸口に立った赤い男を見ていた。

「助かります。ありがとうございます」

 そう言って、その者は笑った。もうとっくに芝居だと判り切った余所行きの顔で。

(そうだ──)

 彼はようやく思い出した。

 今この家に住んでいる、アデルでもゼルでもない男のことを。




 かつてアデル・アルスターが使っていたその部屋は、悪くない居心地であった。

 本人の好みで揃えられたのだろう家具や書物には共通した赴きと落ち着きがあり、それが本人の人格であると読み取るには申し分ない。ヴァンが執心だったのにも頷ける、聡明で物静かな男であったことが窺えた。

 そんなテーブルセットに着いたメビウスは、睡眠魔法でコテンと眠らせたアジーンから回収した翠の宝玉を解析していた。……といっても大がかりな機材など必要なく、手のひらの上に浮かせたそれに自らのチカラを介入させ、魔術的な内部構造を探るという至極簡単なものだ。

 外殻はごく一般的な宝石で構成されているが、やはり内側を構成しているのはヒカリの神力だ。回路ともいうべき魔力の通り道が張り巡らされているが、数か所ほど途切れているところがある。

 三つの宝玉を魔術的に結合し、正式な循環術式を完成させなければならない、パズルに近い構造のようだった。

 そのひとつはここにあり、もうひとつは三年前に奪い去られ、そして残る一つは──。

 ふっと短い息を吐き、メビウスは宝玉をテーブルの上に適当に転がした。使い込まれたアンティークランプが放つ、ほの明るいオレンジの光を反射してそれがキラリと輝く。

 背もたれに身を預け、彼はすこし回想した。

 自分がこの新世界へ降りてくるハメになった、その経緯となった出来事を。


 神羅神たちが『新世界』と呼ぶこの世界の上空に、人知れず浮かぶ孤独の城がある。見れば誰もが感嘆の溜息をもらしそうな素晴らしい水晶細工がきらめく、しかし決して誰の目にも触れることのないはずのそこには今、数人の気配があった。

 城の主であるヒカリと、その親に相当する二柱の神羅神、メビウスとリュウガだ。

「封印解除の宝珠は、もうほどなく揃ってしまうでしょう…」ヒカリは、声の震えを堪えながら言った。「彼らが再び目覚めてしまったら、今度こそ私一人の力では……お願いです、かの蛇竜神たちの封印を守るための術を、授けて頂けないでしょうか」

 彼女が持ちかけたのは相談だった。新世界の人間たちから幻双竜大陸と名付けられた、古い時に隔絶された陸地に封印された、二匹の蛇竜神についてだ。

 片や己が力を持て余し、殺すことや壊すことに執着してしまった闇の蛇と、片や破壊と殺戮を悪と断じ、そんな相手を止めるために応戦を行なった光の蛇。その戦いに巻き込まれた世界は甚大な傷を負うことになり、世の存続を優先したヒカリは、咄嗟の判断で二匹の蛇をひと処に封印した。

 かの地に生きる原住民、アスティ・カーンたちの信仰対象であった彼らの伝承は、どこでどう漏れてしまったのか現存する四大陸の民に一部が伝わってしまい、今や封印解除も時間の問題というところまで来ているのだった。

「そもそも解決のための形式を誤ってしまったようだな……」

 ヒカリを咎めるのではなく、物事の分析に近く、赤い蛇はぽつりと言った。

 封印といえば解けることが前提。つまりこうなることは初めから予測可能だったということだ。ヒカリが幻双竜大陸との境に置いた渦潮にしてもそうである。当時の人間たちの技術力ではあれを超えることはどうしても無理だったかもしれないが、年月を重ねるごとに進歩、進化、進展していく種族的な能力・技術を甘く見すぎていたと言ってもいい。

 現に今、この世の人間たちはごく当たり前にかの大陸に出入りできるようになっており、喜ばしいことに──この神たちからすれば圧倒的に残念なことに──各地の神殿や遺跡は着々と攻略されている。

 世界に散らばらせた封印の鍵に施した護符の効果も、こうなっては逆効果もいいところだ。見目美しく、しかも持つ者に力を授ける宝玉ともなれば奪い合われ大切に保管されることなど知れたこと。おまけにドラゴン族に守らせようと考えたのだろうが龍族魅了の効果も稚拙と言わざるを得ない。そんなものを持っているドラゴンが居るなんて知れた日には、幾人の命知らずが挑んだか知れず、結果的に誰かがそれを手にした可能性も非常に高いのだから。

 あくまでもメビウスの主観だが、そんな封印には、自らの血肉を鍵とするのが一番効率が良いのだ。

「まあ、そう言ってやるなよ」と、リュウガが言った。「ヒカリはどんな奴であれこの世界の存在を傷付けるようなことはしたくなかった。それに、自分の存在が知れることもあっちゃならなかった。だからいづれ目覚めた時に真意を問うべく、封印って形にしたんじゃないか」

「気が変わっていなければ、奴らの復活次第、世界は滅ぶわけだがな?」

「おまえなあ!?」

 あまりにもメビウスがしれっと恐ろしいことを言うものだから、うっと言葉に詰まって俯いたヒカリはその金色の目を潤ませる。

「私の不手際だったことは…承知しております……」ヒカリは言った。「お父さま方からこの地を任された管理者として、私は彼らを厳格に処罰すべきでした。その責務を果たせなかったために、こうして再び未曽有の危機が訪れようとしていることは事実です。どんなお叱りも覚悟の上です、…どうか知恵を、…力を、お貸しください……」

「一応言っておくが、私は別におまえを糾弾に来たわけではないぞ」メビウスは言った。この娘はどこでどう勘違いしてしまったのか、自分のことをどこか畏れているようさえ見える。「実際の話、永い封印の果てに『気が変わった』魔神や魔物なんぞ腐るほど見てきたわけだからな。このたびおまえの行なった『封印』が悪手だったとは言わん」

 ただひたすら問題は、その封印が解けたときにどうなるか、だ。

 今となってリュウガの唯一無二ともいえる友マステリオンにしても、リュウガと心を交わすまでには血の争いがあった。推測ではあるものの、かつて世界を滅ぼす勢いで争っているところを唐突に封印されたというのなら、気が変わっていない可能性のほうが圧倒的に高いのは言うまでもない。むしろこれで気が変わっているほうがおかしい。

 だからこそ何らかの形で、彼らには自分たちの行ないが『誤っている』ことを知らせてやらねばならないが、だからといってただの人間が彼らに近付くのはあまりにも危険だ。話をする前に蒸発させられるのオチであろう。

 そもそも彼らが強制的な封印を理不尽に感じ、莫大な負の力を溜め込んでいることだって有り得るのだ。寝ざめの憂さ晴らしで滅ぼされては世界もたまったものではないし、自分たちだって困る。

 かといってこの世は『自由』でなくてはならない。すべての意思を妨げることなく、すべての意思が在りたいように在れる世界。それがこの新世界を創造した時の、神羅神の──否、いっそメビウス個人の理想だ。ヒカリの行為を責めることも、これからよみがえる魔神たちに鉄槌を下すことも、言ってしまえばこの理想に反する。

 となれば、とるべき手段は一つだ。

「メビウス」リュウガが言った。「俺たちはもうずいぶんと長いこと、ヒカリのことを誤解してきた。彼女は俺たちの代行者じゃないし、この世界の管理者でもない。俺たちの力の片鱗を持っているだけの、ただの女の子だ」

「……」メビウスは何も言わない。そうだとも、ちがうとも。

「万能でも全知でもない彼女に、かつてバランシール様が犯したあやまちを繰り返させてはいけない。『俺たち』ならどうするか、その手本を見せるくらいのことをしてもいいんじゃないか?」

「……ただし」

 と、ぽつりとメビウスが言った。リュウガへの返答にしてもヒカリへの言葉にしても少し噛み合わない切り出しに、二人が一瞬、きょとんとする。

「あくまでも私のやり方になるぞ。……到底、見習えたものではないだろうが、それでもいいなら私が行ってやる」

 そんなふうに言われて向き直られたヒカリは、呆然としていた。まさかこんな言葉を頂けるとは思っていなかった顔。まさか、まさか、と言わんばかりに親を見上げる恐々とした瞳に、ふっと安堵がよぎる。

「お手を煩わせてしまって、ごめんなさい」少女は言った。顔を伏せた拍子に、ぽろぽろと光の雫が落ちていく。「……でも、……ありがとう……」



 実を言えば、メビウスは最初からリュウガに説得されるまでもなくヒカリの求めに応じ、この新世界へ降りるつもりでいた。

 ミスティック・ギフトへの『誤解』によるサイガの負傷には責任を感じていたし、正直、彼の言葉で目から鱗が落ちたのも事実だ。アークはうまくやれているのに、と思わないこともないが、彼には自分の記憶や技術を宿した補佐が居たから上手くいっただけのことで、そもそもヒカリのような気弱な少女でもない。

 おまけにアークの場合は、長く生きすぎて記憶の欠損を起こしていたことも良い方向へ働いていた。要するに偶然が重なった結果だ。すべてが同じように上手くいくとは限らない。まったく難しいものだ。

 ──コン、と一度だけ戸を叩く音がした。思考の海から浮上したメビウスが目を向けてみると、開いた扉からひょこりとヴァンが顔を出すのが見えた。

「よ」と、気楽な挨拶をしてくる。

「珍しいな、こんな時間に起きてくるのは」メビウスは立ち上がりもしないで言った。「夢見でも悪かったか?」

「ま、たまにこういうこともあるんだよ」

 大方、薬が切れて目が覚めてしまったのだろうが、ヴァンはそういったことは何一つ話すことなく適当にはぐらかしてやってきた。対面の椅子を引き、まるで自分の部屋のように身を落ち着けると、手にしていたふたつのミニグラスと、寸胴で丸っこいボトルをテーブルに置く。

「せっかくだから、一杯付き合ってもらおうかと思ってね」

「アルコールは控えるように言われているのではなかったか?」

「そりゃ薬と一緒に飲むなってイミだよ、切れてりゃ別にどうってことないさ。──っていうか、飲めないなんて気の利かないことは言わないでくれよ?」

 どこか機嫌良さそうに言いながら、ヴァンはメビウスの前に置いたグラスに酒を注いだ。子供が見ればフルーツジュースにも見える明るい色合いをしているけれど、匂いからして少し強めの熟成酒だ。

 水割りグラスにストレートで、と言われたらさすがに遠慮させて頂くところだが、この程度の量なら翌日に響くこともあるまい。

「仕方ないな。では頂こうか」

 薄いガラスに繊細な細工の施されたグラスを持ち上げ、メビウスは言った。と、普通ならばそのまま一息に飲み干すべきところを、鼻先でぴたりと手を留める。

「……どうかしたか?」

 小首を傾げてヴァンは訊ねた。早く飲めと促すほどではないにしろ、飲まないのか、と催促の見え隠れする調子。

 ──その、目。

「第U種分類の毒性植物から採取される、催眠薬物だな」グラスをテーブルに戻し、メビウスは言った。「速やかに神経に作用し、服用から意識消失までの所要時間は比較的早い。天魔では数年前、とあるアーティストがこれをアルコールと併用として死んでいるはずだが?」

「へえ、わかるんだな。やっぱり」

 まったく悪びれたふうはなく、ヴァンは頬杖をつきながら面白そうに言った。

 いつかの初対面の際、メビウスは寝崩れたヴァンを助け起こした時、本人の体臭とも、はたまたアルコールとは違うモノの匂いを感じ取っていた。それを覚えていただけのことだ。

 ……というか。

「やっぱり、とは」半ば呆れてメビウスは言った。「バレることが前提か。いい度胸をしているな貴様」

「いーや。まあその、半々ってとこかな」

「もう半分はなんだ」

「あんたが黙って飲んでくれるかもっていう、ほのかーな期待」

 どちらにしろ気付かれることは前提だったらしい。メビウスがもう言葉も失くしていると、ヴァンはおもむろに自分のグラスを取り上げ、事もなく飲み干してしまった。

「…いいのか。薬を入れたのは瓶の方だろう」

「俺は普段から飲んでるからさ」ふーっと息をついて彼は言った。「こんな量じゃ、酒と一緒でも効かないよ」

「呆れたクズだな…」

「でもちょっと、安心した」

 空になったグラスを手元で転がしながら、ヴァンは椅子の背もたれに身を委ねると、メビウスではなくテーブルランプの火を眺めて言った。

「あんたはそんな安っぽい同情をするようなバカじゃない。それがなんか、嬉しい」

 薄っすらと微笑っているその顔から見て、言葉の通り安心しているというのは本当らしい。こいつの知識や能力は本物であるがゆえ、もっとも効率良く蛇竜神たちのもとへ到達するには共に行動するのが適解だ。だから気に入られているのはありがたいし、恐らくこいつが求めるレベルに到達しているのは自分くらいだろうという自負もある。

 ただ、たまにこいつはこうやって、相手を試すような真似をする。一歩間違えば信頼関係を破壊してしまいそうな、危険な真似を。

 ──なぜか。

「なあ?」相手を殺しかねない『毒』を盛ろうとしたことなど忘れたように、ヴァンは言った。「あんたにとって『正義』ってなんだ?」

「なんだ、藪から棒に」

「あんた前に、シノワに言ってたろ。『何をもって正義とするのか』──ってさ。なら、あんたはどんな定義を持ってるのか訊いてみたかったんだ」

「私の考えなど参考にもならんぞ」と前置きして、メビウスは一息吐いて言った。「少なくとも『正しい行ない』は指さんよ。『正しいこと』の尺度など人によって違い、時として漠然としたものだからな」

「あんたにとっては?」

「……強いて言うなら『自由』であることか。何者も妨げず、何者にも妨げられることのない存在志向だ」

「まさに我が道を征くって感じだな。あんたらしいや」

 どこまで本気で言っているのか解らないが、ヴァンはどこか嬉しそうに言って、二杯目となるグラスに口を付ける。

 ──過去にその『信念』とも言うべき志向から知らずと外れ、ヒカリという少女に莫大な重荷を背負わせていたことに気付かされたのは最近のことだが、こいつにそれを話すのは弱みを見せる行為であるような気がした。

「そう…」メビウスは言った。「所詮は私の都合だよ。私が私のしたいことを、したいままにするための方便だ。結局はコレで誰かが損害を被ることになるのは言うまでもない」

「『自分』の望みが叶うってことは、『誰か』の望みが叶わないってことだからな。この世に平等なんてものは存在しない。あるのは優劣と勝敗、加減に強弱、極端に突き詰めれば『アリ』か『ナシ』かだ」

「……」目を伏せて笑いながらそんなことを言う相手を、肘掛けに頬杖をつきながらしばらく見つめ、目が合わなかった間を置いてメビウスは再び口を開いた。「厳密に言えば、成さんとする意志の強さとも言えるな。それがたとえ人を殺そうとも、世界を滅ぼそうとも、自らが正しいと思うことをどこまで信じられるかに因る」

「それは、自分自身をどこまで信じられるかって話か?」

「ありていに言えばな。そしておまえはそれができていない」

 目が合った。

 えっ、と顔をあげたヴァンの表情は、思いもしないことを言われて驚いたというより、今まさに自分が言わんとしたことを先取られて唖然としているそれだった。

「アデル・アルスターの死を、ゼル・ガロンの凶行を止めることができなかったことで、おまえは自分は弱かったのだと考えている。おまえが口にした先ほどの言葉、その負に値するもののすべてが、おまえにとっておまえ自身を表現したものだ。違うか? 正義の何たるかを私に問い、その回答の逆位置に自らを据えて話すおまえの姿は実に惨めだな。ヴァン・クロウよ」

「たった数回の問答でそこまで見抜くとか、どんだけ俺のこと見てんだよあんた」

 厳しさをもって射抜くように自分を睨みつける蛇の眼光を前にしても、ヴァンは怯みはしなかった。自嘲じみた笑みで視線を外すと、テーブルに置いたミニグラスの縁に指先をなぞらせる。

 チーッ、と金属質な音が薄いガラスを震わせた。

「なんだよ。怒ったのか?」

「…興醒めだな」外れた視線は追わないまでも、自ら目を反らすような真似を、メビウスはしない。「泣き言を聞かされて怒りを覚えるほど、私はおまえに移入してはいない」

「どうだろうな? あんたが自分で気付いてないだけかもしれないぜ?」

「私が貴様に感情移入などして、何になる? 誰の同情も求めぬおまえが、私の心を求める理由はなんだ」

「さてね。こういうものは求める側が提示するんじゃない。与える側が考えるもんだろ?」

「──なるほど。…ああ、なるほどな、そういうことか」ふっと目を伏せ、メビウスは少し笑ったように見えた。「私に選ばせるのではなく、自分には『提示』の資格すらないと、そう言うのだな」

「……」

「要するにおまえは自分のことが嫌いなのだろう」

 一瞬押し黙ったヴァンに、メビウスはずばりと言った。

「他者との関係を『壊す』ことに躊躇がないのも、自信の無さや弱さの露呈に抵抗がないのも全て、自身に相手と対等である資格がないと考えるゆえだ」

「…反論はしないよ」

 椅子に深く身を預け、一息ついたヴァンは改めてメビウスを見つめ返した。

「アデルを守れなかった上に、腕も翼も失くしてこんな姿になっちまって、挙句『マトモ』でいるためには薬が手放せないなんて笑い話にもできない。俺はさ、時々自分が何をしてるのか判らなくなるんだよ。……これは泣き言なんかじゃなくて、単なる事実。あんたの言葉を借りるけど、俺の今もアデルの死も、全部ゼルの『正義』が成したことで、あいつがそれを信じる力が俺のソレを上回ってたって話なんだろうなって思っちゃうわけ」

「人は移ろうものだ。おまえとて常に最高の状態を維持できるはずはないし、私も、下降時に芽生える自己否定を否定するつもりもない。──ただ、これだけは言っておいてやる」

「え?」

 言わば盤上のやり取りにも似た対話の中で、メビウスが自分に『言葉』を与えようとするなど予測もしていなかったのだろう。ヴァンは驚いて目をぱちくりさせた。

「私が出てきた以上、これは世界の命運をかける戦いなのだ」神を名乗るその男は、切り裂くような鋭さで言った。「その始点となった、史上稀に見る悲劇に見舞われた『程度』のことで、自分には力が無かったと、自分は弱かったなどとつまらん否定に走るのは愚考も極まる。考えを改めろ、おまえが居るのは地の底などではない」

「……」

 完全に返す言葉を失ってぽかんとしているヴァンの前で、メビウスは立ち上がった。これで話は終わりだと言うように。そして軽く身を屈めて、先ほど置いてからずっと手付かずにしていた自分のグラスをテーブルから持ち上げると、声をかける間もなく一息に飲み干してしまった。

「わかったらさっさと寝てしまえ。気分で不用意なことをして、アルスターの娘を心配させるような真似はするな」

 言いたいことだけ言ってしまうと、メビウスはヴァンの返事も言葉も待たず、質の良いしっかりした造りの樫のベッドに身を投げてしまった。



 しーんと静まり返ってしまった家の──部屋の中で、メビウスの息遣いが死者の最期の一呼吸のように深くなって一定化して以降も、しばらくヴァンは椅子から動かないでいた。

 今にも燃え尽きそうなランプの火は、彼が消すまでもなくそのうち消えてしまうだろう。新しいものを継ぎ足す気にはなれない。

(……また負けた)

 ヴァンはそう思った。メビウスと対話をして、『勝った』ことなんか一回もない。彼の正体を暴いた時にはしてやったりと思ったものだったが、今にして思うとあれですら、ヴァンに自分の正体を見抜かせるための筋道を仕組まれていたのではないかと疑わしくなる。

 世界の命運。

 これほどまでに現実味のない言葉が他にあるだろうか。

 そしてこれほどまでに、興味のない言葉も珍しい。

 ふとヴァンは、テーブルの上に放置された翠の宝玉に目をやった。アジーンが後生大事にしていたものだから──取り上げて騒がれても面倒なので──綿密な調査はしていなかったけれど、それはどうやらメビウスがやってくれたらしい。

 あの胡散臭い単語がその解析の結果だったというのなら、あのときゼルが持ち去った、これによく似た深紅の宝玉とこの翠の宝玉には繋がりがあるのだろうか。

(あいつは……来るかな)

 これを奪うために?

(……俺に会うためじゃなくて?)

 なんだろうか。こうして無性に腹が立つのは。

 でも、どんなに過去や昔に思いを馳せても、先ほど目を覚まして間もなくのような、背筋の逆立つ鮮明さを帯びた声は聞こえない。

 あたりはただ、静寂に満ちている。

 理由はもう、わかっている。

 ヴァンはテーブルにしっかりと両手をついて、脚の感覚を確かめながらゆっくりと立ち上がった。膝が抜けるようなことはなく、彼はそろりとなら歩くことができた。その足でベッドへ歩み寄り、そこで眠っている──否、もはや意識を失っている男を見下ろす。

(優しいやつだな、あんたは)

 ヴァンが抱えていた積年の自己否定を、ことごとく言葉にしてくれた。

 こんなこと誰にも話したことはない。辛うじて称賛の言葉をやんわりと拒否し、期待には気のない態度をとる程度だった彼の自己嫌悪を、洗いざらい曝け出させた。

 そのうえで、ヴァンに非も責もないと言い切ってみせた。

 私がいるのだから安心しろ──と、そう言われたような気さえした。

(ああ、きれいな顔してる)

 ヴァンが身を乗り出すと、二人分の体重を受けた枠組みがぎしりと音を立てる。腕を伸ばし、指先で髪を探り頬に触れるまでの駆動音が、まるで気にならない。

 触れたい、と望むのは本心だ。興味のある者にはとりあえず身体で触れてみる──こうしたヴァンの習性とも言うべき性質に、一部の人間は頭がおかしいなんて愚痴っぽい文句を言うけれど、それで本当に相手のあらゆることがだいたい理解できてしまうのだから仕方がない。

 ただ、やはりと言うべきか、その行為にはヴァンの趣旨そのものも多分に含まれている。

 キスをして、その気にさせて、繋がって。

 淡々として飄々と、そして時に厳粛に知性を語るこの男からその余裕が無くなっていくのを眺めることができたら、さぞや心地が好いだろう。

(……でも)

 ヴァンはさも残念とばかりに息を吐き、腕の力を抜いて身を落とすと、どさりとメビウスの隣に転がった。さすがに薬に対する耐性など持たないだけあって、彼はすぐ傍でそんな衝撃があっても小さな反応すらしない。

 ヴァンが何より見たかったのはこいつの目だ。そのあかい瞳が、いま自分を見てくれないのなら、この絶好の好機にありながらヴァンが彼にこれ以上触れる意味は無い。それに、傍に感じる気配と体温のおかげか、それともそろそろ酔いが回ったか、ぼんやりと意識が揺らぐ。

 自分からとうにその気が失せていることを意識して、その理由にも行き当たって、ヴァンは改めてこの男の底の知れなさを認識させられる。

「あんた、逃げるの上手すぎ」

 ──それはどうも、と、彼の得意げに笑う声が聞こえた気がした。




                               to be continued...(2017/12/12)