理性をる本能



 その家へ入ると、おいしそうな、とてもよい匂いがした。

「おかえりなさい、ヴァン!」

 扉を閉めるより早く奥から少女が駆け出して来て、帰宅したヴァンを出迎える。……が、その輝くばかりの笑顔は、彼の肩に乗っかっている黒竜の子供と、更に背後に控えたもうひとりの男の姿を見て強張るように固まった。

「ただいま、ジゼル」

 とりあえずヴァンはあらゆる説明を二の次にして、挨拶と共に彼女の前に膝をつき、頭を撫でた。上からポンと叩くようにするのでなく、耳元やこめかみに近い髪に触れるように。

 子供ではあるが、完全な子ども扱いをしない気遣いの挙動。ヴァンの背後で彼のそんな仕草を、メビウスは黙って見ている。

「おまえがジゼルだな! 相棒から話は聞いてるぜ!」

 と、ヴァンの肩口からぴょっと飛び出したアジーンが彼女の周りを嬉しそうに飛び回った。え、え、と、どうしたものか動揺しながらも、ジゼル・アルスターはその子竜が危険なものではないことをすぐに察することができたようだ。

「俺様はアジーン、好物は寝る前の甘いホットミルクだ、よろしくな! 間違っても酒なんか飲ませてくれるなよ!」

「……え」ちゃっかり自己主張してくるアジーンの言葉を聞き付けたジゼルが、何かを察したようにヴァンを見上げたが、

「あーっと、紹介しておくよジゼル」

 絶妙なタイミングで目が合うことを回避をした彼は何食わん顔で、やっと自分の後ろに立っている男の姿を示して言った。

「こっちはメルクリウス。新大陸で一緒になった学者だ」

「学者、さん……?」

「メルクリウス」と、ヴァンはメビウスに言った。「彼女はジゼル。俺の同居人だよ」

「初めましてジゼルさん」メビウスは軽く会釈をし、不思議そうに自分を見上げてくる相手に柔和な笑みを見せた。「ヴァンさんの御厚意で、次の渡航までこちらでお世話になります。お手間をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします」

「そうなんですね」やっと関係と事情を理解したジゼルが、うんとひとつ頷いて言った。「それじゃあ、お夕飯は多めに準備しなくちゃ」

「ああ」廊下へ上がり、奥の扉を目指しながらヴァンが言った。「悪いけどよろしくな」

「お部屋はどこにする? 無いことはないけど……」

「まあ適当に決めるよ。……新大陸から持ち帰った資料、急ぎでまとめないといけないから、しばらくは気にしなくていいさ」

「そう? じゃあ私、お夕飯の準備はじめるからね。できたら呼ぶわ、どこにいる?」

「地下の資料庫」

「うんわかった」

 短いやり取りを終わらせて、ヴァンは廊下の突き当たりにぽつんと佇む扉へと入っていく。続くメビウスとともに、アジーンがアッと声を上げてその背を追……おうとした。

「だめよアジーン、ヴァンはまだお仕事あるんだから」

「なっ、なんだよー! 俺様だって仕事の手伝いくらいできるんだぞっ」

「じゃあ、私のお仕事を手伝って? お夕飯の買い出しに行くんだけど、荷物が重たくていつも大変だったの。アジーンはドラゴンだから、そのくらい平気で持てちゃうよね?」

「なんだなんだ、人間は非力だなあ! そういうことなら俺様に任せとけぃ! どこまで行くんだ、隣の国か?」

「そんな遠くまで行かないよー、国際通りの市場まで──」



 折り返しの長い階段を降りた先に、その資料庫はある。

 さすがに広大とは言いがたいが、背丈は天井近くまである大型の本棚がいくつもひしめき合い、そこに収まり切らない大量の書籍がそこら中で山を作っている。冬場の使用に耐えるためか暖炉も設置されていて、スイッチひとつで自由に明るさを調整できる鉄機製のランプが等間隔で並んでおり、火種の心配をしなくていいのは何よりだ。

 驚くべきか、本棚の書籍はもちろんのこと、床に積まれたものにもホコリ類は一切積もっていない。ジゼルの掃除が行き届いていることもあるだろうが、普段ヴァンがどれだけの情報量を取り扱っているかが窺えるというものだ。

「あんたとジゼルをセットにはできないからな」と、ヴァンは肩を竦めて言った。「退屈かもしれないが、本なら腐るほどある。俺が資料をまとめる間、適当に暇を潰しててくれ」

 その言葉を最後に、ふたりは一切の会話を絶った。

 というか、口を利く必要性が無かったといえる。

 ヴァンは奥に設置された大きな樫の作業机で資料を展開し、メビウスは本棚の傍に置かれた簡素なテーブルセットに着いて、室内から選ってきた本を開いて各々の時間を過ごし始める。

 地下だからということも相俟って、時間の経過を驚くほど感じない間だった。

 上ではジゼルがアジーンを連れて出かけて行き、そして戻って来て。更にその外では陽が傾き、人々が家路や馴染みの酒場へと向かい始める頃なって、ようやく。

「──そのくらいにしておけ」

 と、メビウスに声をかけられてヴァンははっと我にかえった。

 天魔の国立博物館から特別依頼された、新大陸の遺跡に関する調査資料のまとめは、ほんの数ページ程度で終わるものと思いきや、気付いてみれば修正に加筆を繰り返し、山のようになりかけている。

 雑誌や書籍の編集者ではあるまいに、これを読まされる担当者の苦労を考えれば「やってしまった」と言わざるを得ない。

「あと何冊、書籍を出せば気が済むんだ?」

 ヴァンの手元を見たわけでもないのに、そうやってからかうようにメビウスが笑って言うのは、彼がヴァンの処理能力や速度をある程度正確に把握しているからだ。

 そんな彼の手元には、かつてヴァンが執筆したレポートを元に出版された、古代遺跡に関する書籍がある。よく見るとテーブルの上に積み上げられた、読破済みと思われる歴史書関連は、すべてヴァンが手掛けたものばかりだった。

「なに、あんた」ヴァンは言った。「俺のファン?」

「おまえの見解でなら、この世界のことを知るのにちょうどいいと思ったまでだ」

「それ、ほとんど俺の独断と偏見だぞ」

「個人の主観だなどと、それこそ個人の思い込みだよ」最後の本を閉じ、メビウスは言った。「広く世界に認識された主観は、客観と呼んで然るべきものと私は思うがな」

「……」

 天魔の街へ戻るや否や報告のため王宮へ向かい、レポート依頼のため博物館へ招致され、道を歩けばゴロツキのようなナリをした冒険家仲間が嬉しそうに寄ってくる。

 報告を求めた王宮にしろ、レポートを求めた博物館にしろ、そしてこの街に溢れる数多の冒険家たちにしろ、すべてに共通した意識はヴァンへの信頼だ。誰もが彼の言葉を、見解を待ってやまない。天魔の外側ではきっと、未だ予定のない、ヴァンが手掛ける新大陸関連の書籍が発売されるのを心待ちにしている者だっているに違いない。

 メビウスがヴァンの主観を『客観』と称したのは、こうした彼が他者から集めている期待と羨望を見抜いてこそのことだ。それはメビウスが洞察力に優れていたせいも無論あるけれど、今回に限っては誰が同行していても同じ結論に達しただろう。

 ただヴァンは、『自分』にそれほどの価値があるとは思えないでいる。

 昔は、そんなことはなかったはずなのだが──。

「貸してみろ」

「え?」

 一瞬、暗く沈みかけた意識が浮上する。見やってみるとメビウスが手を伸ばしてこちらを見ていた。

「博物館へ提出できる程度に添削すればいいんだろう。今からおまえがやろうとしたら夜が明けそうだし、さらに量が増えそうだ。今の私なら、そのくらいはできる」

「……助かるよ」

 今から改めて取り掛かっては翌朝の提出に間に合わない、と危機感を覚えていたのは事実である。ヴァンは素直に応じて書類を手渡した。

 これから夜通しの作業だなんて、夕食を作ってくれているジゼルにも悪い。次の新大陸渡航がいつになるかはまだ目処がついていないが、せめて家に居られる間は、彼女と過ごせる時間をできるだけ作ってやりたいというのが理想であった。

「『新大陸』に関するおまえの予測と想像は、大方当たっているのだが」文書を読み進めながらメビウスが言った。「現時点では『個人の独断』と解されても仕方のないところが多い。こうも早くに解明されては他の学者も張り合いがないし、つまらんだろう」

「謎は残しておいてやれって?」

「まあ、そういうことだな。最終的なまとめとして、これまでの書籍のような完璧なものを出せばいいが、今は……このくらいで充分だ」

 ほら、と返された書類を読み返して見ると、ほとんど冒頭の数枚分しか必要とされていない。今の会話では『謎は残すもの』ということだったようだが、これでは謎だらけで何も解明できていない。

「おまえだって次の渡航が楽しみだろう?」メビウスは、ヴァンの怪訝な表情も見ずに言った。「次回に続くとでも称しておけば、そのうち連中から次の依頼が舞い込むさ。我々はすでに持っている『答え』を隠してそれを待てばいい」

「策士だな」

「駆け引き、だよ」

 聞こえの悪い言葉を修正しながら腕や脚を組む、メビウスのその仕草が子供じみて得意げに見えて、ヴァンはどこか心地の好い呆れに軽く溜息を吐く。

「そういえば」

 と、メビウスが思い出したように言った。

「あの娘」

「ん? ジゼルか」

「おまえの娘か?」

「今まで誰もしたことなかった聞き方で入ってくるな、あんた」

「そうか? その歳でその性癖だ、無認知の子供のひとりやふたり、いると思ったのだが」

「……ッは? 言ってくれるじゃないの」たまらずこめかみが引きつるのを感じ、ヴァンは言った。「同居人だって言ったろ。それにあの子のファミリーネームはアルスターだ、俺の子じゃない」

「そうだったか、これは失敬」

 わかってて聞いてるな、こいつ──ヴァンはすぐに察した。

 第一、彼は自分にかかっている成長停止の呪いの話なんかこいつにはしていないのに、『年齢』が当たり前のように認識されているのだ。行きの船で自分のことを『神の上位者』だと名乗っただけあって、こいつにとってこの世の人間など文字を読むようなもので、一目で大概を把握できてしまえるのだろう。

「……」

 だとしたら。

 もう、メビウスはわかっているのだろうか。

 ヴァンに翼がない理由を。

 腕がない理由を。

 ジゼルに両親がいない理由を──。

「俺が彼女を引き取ったのは……」

 と切り出しながら、ヴァンは近くの椅子に身を投げ落とした。

 知っているよ、とも、言う必要はない、とも、メビウスは言わない。先を促すでもなくただヴァンに目をやるだけだ。──その、血の雫のように人を惹きつける瞳を。

 このヴァン・クロウがジゼル・アルスターを正式に引き取ってから、実を言えば、まだ数ヶ月程度の期間しか経っていない。

 だが彼女が父親を失ってから、すでに三年。

 ヴァンはこの、自身がジゼルを引き取るまでに要した、短いようで地獄のように長かった数年間のことを、映像記録にでも残したように克明に、──鮮明に、覚えていた。



 真に迫った女の悲鳴を聞き付け、オニキスをはじめとした数人が慌ててその部屋へ駆け込んでいく。

 居たのは、手を庇ってうずくまるひとりの女。身に着けたエプロンには溢れ流れた血が落ち、赤い染みが広がっている。

「あ、せ、先生っ…」オニキスの姿を認めた女が助けを求めるように、庇っていた手を見せた。「ヴァンが噛み付いてしまって……」

「ヴァン! おまえ、またっ」

 オニキスが女の手を診る横で、他の男が怒ることもできぬ様子で声を荒げる。

 両腕を失って、その傷もまだ塞がらぬヴァンが、まとわされた包帯を血に染めてうずくまっていた。声をかけられ顔を上げる彼の目は、鬼気迫った動物のようにぎらついている。

「違うのよ、ごめんなさい、あなた」女が、夫らしいその男に言った。「私の扱いが悪かったのよ、きっとどこか痛かったんだわ……だから。ごめんなさいね、ヴァン」

「……失せろっ」ヴァンが言った。絞り出すような、かすれた声で。──そしてすぐに、カッと燃え立つような激しい怒声で。「おまえらみんな、出て行けっ! 俺に近付くな!!」

「落ち着くんだ、ヴァン」応急処置を終えたオニキスが、声をかけながら彼に近付き、両腕を伸ばす。「そろそろ包帯を替えなければ、傷が腐ってしまうぞ」

「うるさいっ、知るかそんなこと!! 誰も来るな、俺に触るなあああ!!」

「まずい、舌を噛むぞ!」誰かが慌てて叫んだ。

「誰かタオル持って来い!」

 怒号が飛び交い、室内がまるで戦場のようになる。

 唯一『攻撃』されてもダメージの少ないオニキスが処置を行なう傍ら、数人の男らが束になってヴァンを押さえ付け、口を縛る。戸口のところにはいつの間にか何人もの女が集まっていて、恐々としてその様子を見ていた。

 ヴァンを収容したオニキスの診療所では、一日に一度……下手をすれば数回、こうして大きな騒ぎが起こっていた。

 それは誰にも咎めることのできぬ、そして慰めることのできぬ、ただ純粋な『暴力』でしか対応できないものであった。



「先生……家内の怪我は大丈夫でしたか」と、男が言った。

「水仕事は控えたほうがいい」オニキスは冷静に言った。「しばらくは化膿しないように気を付けなさい。薬は出しておくから」

「なあ先生」話も終わらぬうちに、別の者が言った。「ヴァンのやつァ、もうどうかしちまったんじゃねえんですか」

「こないだは窓ガラスに頭を突っ込みやがった。もうちょっとで首をやっちまうところだ」

「気晴らしになるかと思ってイイ女を紹介してやろうと思ったら、そいつにも齧り付いたことがあったなあ確か……」

「ヴァン・クロウといえば、世界中が注目する素晴らしい人だったのにねえ……」肩を落とした女が、悲しげに言った。「アデルだってあんなことになって、何もかも失くしてしまったんだ。ああなってしまうのも仕方がないよ」

「俺だってゾッとするぜ。自分の腕と翼が無くなっちまったら、なんて思ったら──」

 そのとき、彼らがたむろしていた診療所をドドンと強い衝撃が襲った。

 どこかで何かが爆発したのかと思ったがそうではない。

 内部のどこかで、何かが壁に勢いよくぶつかった音──それに気付いたとき、彼らは察した。声を潜めているつもりだった自分らの会話が、別室のヴァンに聞こえていたことを。彼が思いきり壁を蹴り飛ばして抗議しているのだと。

「な、長居してすまねえな先生! またなんかあったら呼んでくれ」

「俺もそろそろ帰るぜ、おっ母さんが心配してっしな」

 ぎくりと顔色を変えた男たちはそそくさと席を立ち、あるいは壁際から離れて診療所を去って行く。

 彼らの全員を見送ったオニキスは、刹那、ヴァンの入っている個室の戸を見やった。

 そこには外側から留め金をかけているので、ただでさえ手が無くノブを操作できないヴァンでは扉を破壊でもしない限り出ることはできない。窓も、しばらく前に壊された際に石の粉で塗り固めた。様々な意味で『安全』を考慮された場所となっているのは間違いない。

 が、それは、オニキスが志す医療にあるべきどんな気遣いや優しさからもかけ離れた、無機質な防壁に過ぎない。ヴァンにあらゆる自由を許さない、彼の意思に関係なく彼の気が変わるまでただひたすら押し込めておくだけの砦と化している。

(──ヴァン)

 彼の今の姿を思うほど、オニキスは、胸に内蔵されたCPU回路がショートしそうな危機感に見舞われる。

 それは人間でいうところの、胸を締め付けられるつらい感情であったのだが、人間とは一線を画する彼ら鉄機の存在に理解できるものではない。

 私はキミに、私が今できる最善の処置を行なっているはずなのに──。

 それを『危機感』であると認識したが故に、オニキスは、自身の中でそれ以上を追及するのをやめた。戸に背を向け、自分があるべき奥の部屋へと戻っていく。明日またここを訪れる患者たちへの準備のため、そして、ヴァンに与えねばならぬ次の薬品を処方するために。

 だから彼は気付かなかった。

 静まり返った夜闇の向こうから、小さくすすり泣く声が近付いてきていたことに。



 適量を与えられているはずの鎮静剤を超えて、失くした腕が痛む。

 無いはずの指先がじりじりと焦げるように痛む。動かせない手首や肘が今にも折れそうに軋んで止まない。奥歯を食いしばって痛みに耐えることにも疲れ、ヴァンは浮かされるまま呻き、転がることもままならず芋虫のようにのたうつ。

 いっそ殺してくれ、などと考えたことは一度もない。

 彼はこの痛みの、真の意味を知っていたから。

(俺は……、俺は、まだ──)

 やっとのことで寝返りを打ち、シーツに齧り付いて、ヴァンは鎮静剤による意識の揺らぎを振り払うように思考する。

 自分は殺されなかった。

 完全な不意討ちだったから、やろうと思えば『あいつ』はヴァンをアデルのようにすることができたのに、それをしなかった。ここで自ら命を絶ち、『あいつ』ができなかったことを成し遂げてやろうかとも思いはしたが、それでは何の意味もない気がして。

(生きてる──)

 それは、揺るぎない真実。

 この状況下で、ヴァンの感情と思考がここまで『正常』に動いていることをオニキスが知れば、きっと声を上げて驚いたことだろう。

 誰もが、ヴァンは壊れたと思っている。

 だから、ヴァンがするあらゆることを咎めない──否、咎めようとはしない。

 本当の意味で頭のおかしい奴が起こした犯罪が罪に問われぬように、誰もがヴァンの挙動を、正常から逸脱してしまった故のものだと思い込んでいる。

 きっと、何を言っても連中はヴァンを憐れむのだ。

 それなら誰の手も借りない。……借りたくはない。少なくとも俺を狂人のように見て、可哀想に扱うような奴らに解ってもらおうとは思わない。

 誰も──、誰も近付くな。俺を憐れむな、そんな目で見るな──。

 カチリ。

 半ば悪夢の中を彷徨っていたヴァンの意識が、ばちんと弾かれたように覚醒した。窓が塗り固められたせいで月明かりすら入って来ない真闇の室内に、次の瞬間、コバルトブルーの淡い光がすっと射す。

 誰だ、こんな夜中に。先生か──?
「ヴァン……」

 すすり泣きながら自分を呼ぶそのかよわい声を聞き付けて、一瞬前まで煮え滾っていた感情の熱がさざ波のように引いていく。

「──ジ、ゼル?」

 ヴァンは今更ながらに思い出した。

 アデルに、まだ幼い娘がいたことを。

 ずっと、もうずっと昔のことのように、自身の記憶がよみがえる。

  母親が病死し、アデルが男手ひとつでジゼルを育てねばならないことになったとき、同じ冒険家としてヴァンにできたことは、養育費の支援くらいだった。様々な分野で学者の資格を持っていたヴァンは、数多の専門書を手掛けて多くのファンを得ていた。そこで手始めに、それらの印税をすべてジゼルに入るよう手配を取ったのだ。

 巨額となるためアデルは拒否しようとしたけれど、金銭にさしたる執着のなかったヴァンは意に介さず押し切った。おかげでジゼルは、物理的には片親ながら何不自由なく育つことができて、アデルも感謝していて、そして物心ついた彼女が自分を家族同然に思ってくれて、とても懐いてくれたのが嬉しかった。

 でも、アデルは死んだ。

 彼女の唯一の肉親であった父親は、死んだのだ。

(みんな、ジゼルのことなんて言ってた? ……思い出せ、なんて話してた……?)

 自分がとち狂っていた間、街の人たちはジゼルがどうなったか、彼女をどう扱ったかもオニキスを交えて、集会所と化したこの診療所で話していたはずだ。

 あれから、あの子の親類を名乗る人がたくさん来るようになって──。

 何度か引き取られていったけど、すぐ戻って来て──。

 懐かないとか、逃げ出してきたとか──。

 前は、女が来て急に連れて行こうとして。誘拐まがいもいいところだ──。

(……ああ)

 ヴァンの蒼い目が涙を思い出した。

 すべて、自分が撒いた種ではないか。

 親権者であったアデル自身でさえウデの立つ冒険家で、その財産は相当なものだったのだ。その上を行く冒険家ヴァン・クロウの権利さえ持つ孤児となったジゼルに、欲深い阿呆どもの興味が集中するくらい、当然予想できたことではないか。

 何故、今の今まで忘れていたのか。

 自分のことばかりで、彼女の存在なんか完全に忘れていたのだ。

 それなのに──。

「ヴァン……」

 ジゼルは肩を揺らして泣きながら、起き上がることもできないヴァンにすがった。

「ヴァン、助けて」彼女は確かに、そう言っていた。



「……それで、おまえはどうした」

 長い沈黙をどう捉えたのか、頬杖なんかつきながらメビウスは続きを促した。

「速攻で先生──オニキスを呼んだ」ヴァンは言った。「今すぐ俺を動けるようにしてくれって頼んだんだ」

「来るな触るな近付くなの次は、新しい腕を寄越せと。無茶苦茶な患者だな、狂人もいいところだ」

「だろー。先生も絶句してたよ」

 自虐とは違い、すこし呆れ半分にヴァンは苦笑いした。それは、今尚その時の自分の挙動に、一切の後悔も抱いていないからだ。

 ジゼルは自分を──、ヴァンを、選んでくれた。

 自分に良い物を食べさせてくれて、良い服を着させてくれて、愛らしいドールや綺麗なアクセサリーをくれる見知らぬ大人たちよりも、腕も翼も無くして身動ぎすらろくにできないヴァンを求めた。

 これに応えなかったら、自分は何のために生きるんだ──。

 人が生きるためには、必要なものがある。

 はじめはただ、純粋に『まだ生きている自分』という事実にすがって、その命を繋ぐことしか考えていなかった。けれどジゼルの願いを聞いたとき、動物じみた本能が、人間らしい理性を得たのだ。

「先生を通してジゼルの親権を要求したら一発で通ってさ、それからはひたすらリハビリの毎日だったよ」

「おまえのことだ。どうせ娘の親権というより、娘が持っている自分絡みの利権の所有という形で申請したんだろう。それなら通らないほうがおかしいからな」

「ま、放棄はしてなかったんでね。モノは言いようだよ」

「策士め」

「──駆け引き、だよ」思い付いたように、肩を竦めてヴァンは笑った。

 当時に何かしらトラウマができたのか、今でもジゼルは見知らぬ大人を見ると怯えたような仕草を見せる。けれどその時のことを彼女は何も言わないし、ヴァンも聞かない。ジゼルがヴァンに、父の最期やそのときの心情を聞こうとしないのと同じように。

 だから彼はそんな彼女を『子供』とは見ていない。同居人という、それ以上でもそれ以下でもないひとつのラインを敷いて、人として敬意を払って接しているのだ。

 ただ、ヴァンの女癖の悪さをたまたま知った奴がからかいに来ることはある。……が、彼の好みは『グラマラスな女性』ということになっているから、誤解を受けることまでは滅多にないのだが。

「こんなハナシ、知ってる奴は少ないんだからな?」

「では私は、話してくれたことをありがたがっておくとしようか」

「別にそんな必要ないって。──ただちょっと」

 と、ヴァンは立ち上がって身を伸ばす。どうしたのか見上げてくるメビウスの頬に両手を添え、有無を言わさぬ早さで顔を寄せる。

「ほんのちょっと、駄賃をくれたらそれで──」

 その言葉が終わらぬうちに唇が触れ合う……はずだった。それよりも早く、何の前触れもなく開いたドアの音が割って入ってくる。

「ヴァン、メルクリウスさん、お待たせ──」

 頭にアジーンを乗っけた、明るいジゼルの声がそこで切れた。

 気まずい空気と、沈黙が流れる。 

 間が悪かった。

 あまりに悪かった。

「あ、いや、これは……」

 ヴァンはたまらず言い訳を試みたが、もう遅い。

 サッと伸びたジゼルの手が、近場の暖炉から火かき棒を引っこ抜く。アジーンがヒッと慌てて空中に逃れるのもそのはず、彼女の目は呆れと怒りに満ちていた。

「ちょっと『綺麗な人』を見たらすぐコレなんだから、このスケコマシイイィィィィィィィ!!」

「うわああああぁぁぁぁ!!」

 異様な悪夢で飛び起きたときにさえこんな声は出ないぞという畏怖の叫びとともに、ヴァンは翼もないのに飛ぶような速さで襲い来るジゼルの一撃を逃げかわし、地下室から文字通り飛び出していく。

 思えばメビウスは様子が違っていた。

 何でもお見通しで、ヴァンの悪い癖のことも知っているはずで、自分でこんなことをいうのも切ないが、二人きりになったらヴァンがタイミングを狙ってくることくらいわかっていたはずだ。

 それを、かわそうとはしなかった。

 止めもしなかった。

 演技じみて、きょとんとしていた。

 そう、やっぱりあいつは全部わかっていたのだ。──ジゼルが来ることを。

「待ちなさーい! 今日という今日は天誅くらわせてやるんだからああー!!」

 しかも今日に限って彼女は諦めが悪い。せっかくの帰宅当日という、今日という日が何より悪かったのだと気付いて後悔してもあとの祭りだ。

「あンのっ……策士めええぇぇ!!」

 全力で逃げるヴァンの遺言にも等しい叫びが聞こえたか、ポカーンとしているアジーンとともに地下室に残されたメビウスが、新たな本を開きながら愉しそうに呟いた。

「だから駆け引きだよと、何度言わせるんだか……まったく」




                                   END? (2017/06/16)