俺とと私



 船が進み、掻き分けられた波の流れゆく音だけが支配する、夜の静寂。

 船内で灯りをともしている部屋があるとすれば、そこは船員室くらいだろう。ヴァンにあてがわれた小さな船室も例外ではなく、灯り取りのロウソクは尽きて久しい。

「ヴァン──」

 甘くとろけるゼルの囁きとともに、彼が眠るベッドに、ぎしりと重みが降りる。闇深い室内でより暗い影がヴァンを覆った。伸ばされた手がそっと頬をさする。絡む髪の感触を楽しむように指先が動くのに、当の本人はぴくりとも動かない。

 しばらく様子を観察して、ゼルは気付く。

 呼吸があまりにも整い過ぎている。相手は今、薬によって強制的に意識を断たれているのだ……と。

(ああ、そうか──)

 それは落胆の吐息ではない。

 鋭い三日月にも似て、にやりとその口元が笑みを刻む。

 歓喜。

(そうか、ヴァン。キミはそうしなければ、もう眠ることさえままならないんだね)

 愛おしい。

 なんと愛おしい、不具合だらけで不格好な人形なのか。

(でも、それでこそキミだよ)

 慈愛にも等しい気持ちで、ゼルはヴァンの身体を掻き抱いた。ぐったりとした身体が、在りし頃より少し重く感じるのは気のせいではない。それすらも心地好い。

 ゼルが見たいのはこの先なのだ。

 壊れて、崩れて、今まさに終わらんとする刹那、命が自らの終焉を悟る瞬間。逃れ得ぬ運命を受け入れるとき、その表情をよぎる今生への諦め──。

 そう、絶望。

 ヴァンは今、そんな終焉への崩壊の過程にある。命は、死の間際にこそ眩く輝くとされている。彼はまさにその輝きを放っている最中だ。やがて光は拡散をやめ、薄らいで静寂へと戻るだろう。

 ヴァンに関してのみならず、ゼルはそんな終息の一連がたまらなく好きなのだ。いっそその終焉とともに自分も一緒に終わりたいとさえ思えて、彼は衝動に駆られるまま多くの者を傷付け、あるいは殺めてきた。

 でも、必ず自分だけ生き残る。

 当たり前だ。ゼルが相手の最期を満喫してサテと思った時には、すでに周囲は彼を糾弾する人だかりになっているのだから。その頃には高揚していた好い気分はすっかり影を潜め、もう死体と成り果てた相手に何の感情も抱けなくなっている。

 ああ残念、このひとも僕とともに死ねる存在ではなかったんだ──罪悪感でも悔恨でもなく、彼がそう思いながらふっと吐き出すのは落胆の溜息であった。

 相手を慮ることのない究極の身勝手。常人が持つ精神構造を決定的に欠落した情緒。そんなゼルがヴァンに初めて出会ったのは、いつの頃だったろう。

「おまえ、セックスしたことある?」

 小難しい文字を羅列させた遺跡見聞書を読みながら、ヴァンは言った。

 質問の意味を理解できなくてゼルがぽかんとしていたら、彼はどこか勝ち誇ったように笑ったのだ。

 ひとより優位にあることを意識した、優越感を思わせるどこか見下した笑み。どういうわけか、それが心地好かった。ヴァンは明らかに常人とは違う自分をからかっていて、何かしら試そうとして、新しいおもちゃでも見つけたように面白がっているのだと判った。

 ……今の今まで、他人の心理心境など微塵も理解しなかったゼルが、だ。

 ヴァンの考えていることが手に取るようにわかって、だからヴァンが自分の一部のように思えた。最初に感じた心地好さはこれだったのだ。

「俺のことが好きならさ、もっといい方法、教えてやるよ」

 ゼルはいつの間にかナイフを握っていたことなんか忘れていて、相手に誘われるまま一線を越えたのだった。


(……でも)


 アデルが現れて、状況は一変する。

 ヴァンに匹敵する高い能力を持った冒険家である彼に、ヴァンが寄っていくのは目に見えたことだった。その頃にはゼルもすっかりヴァンの悪い癖を知り尽くしていて、あーあまたやってる、くらいの気持ちでしかなかった。

 だが、アデルはヴァンの誘いに乗らなかった。駄々っ子をそうするように軽くいなして、それでいてコンビを解消するでもなく変わらぬ仕事上での提携関係を維持したのだ。

 珍しい……というより、ゼルは初めて見た。ヴァンの誘いに応じなかった人間を。

「あんなひとも居るんだねえ、勿体ない」

「何言ってんだよ、あれが普通だぞ」

 思わぬヴァンの返答に驚いたゼルが振り向いた時には、もうヴァンはアデルのほうへ戻って行っていた。

 ……『戻る』?
(何を言ってるんだ僕は。ヴァンは僕のものなのに)

 動揺はじきに膨らみ、不安の影がさす。

 目に見えるほど明確に、ヴァンはアデルを優先するようになっていった。仕事でも、日常でも。そのうち仕事上便利だからと、一緒に暮らそうとまで言い出した。

 どうして? ゼルはまったく解らなかった。どうしてキミに応えなかったヤツなんかと、もっと一緒に居たいと思えるんだ? どうして──。

 その答えは唐突に出る。

 はじめこそヴァンが単にむきになっているだけだと思った。自分の誘いに応じない奴がいるなんておかしい、絶対に落としてやる、と。

 でもヴァンは言った。

「あれが普通だぞ」

 ヴァンはアデルに対して意地になっているのでなく、極めて普通に接しているだけなのだ。自分のものにしたいとか、自分の下に欲しいとかそういうことではなく、共に冒険家として歩む、実力が均衡した『対等』な相手として敬意すら払って。

 今更ながらにゼルは、あのときヴァンにかけられた質問が、隣を歩くのか、それとも一歩下がるのかを問う『テスト』だったことに気付いた。自分でも知らないうちに、彼は相手をまず値踏みする性質を持っていたのだ。

 そしてさがしていたのだ。自分の隣を歩くに相応しい、『対等』になれる相手を。

 ゼルはヴァンに見下されている自分を意識していたはずだった。でもそれは自分たちが同一の思考を持つがゆえの、自分の暗部から目を逸らす一種の逃避行動なのだと思っていた。……否、信じていた。

(でも、違ったんだ)

 だからアデルを殺した。

 ヴァンが怒るかもしれないという危惧はまったく無かった。彼の思考言動をシミュレーションできなくなっている──すなわち自分とヴァンに対する同一視が途切れてしまっていることにゼルは気付いていなかった。

 そのうち僕は相手にされなくなる。……いいよそれでも。そんなにアデルが大事ならキミはそのまま彼を好きでいればいい。

 でも、『キミの傍』は僕の居場所だ。それだけは絶対に譲らない──。

 だからアデルを殺した。

 ゼルの人生の中で、恋愛感情に因せぬ殺人は、実にこれが初めてのことであった。


(もうすぐだ)

 ゼルはようやく身を起こすと、深い眠りの底に在るヴァンを慈しむように見つめる。

(もうすぐ世界が終わる。キミと僕が一緒に死ぬための、最高の舞台を用意してあげるから)

 込み上げる愛しさに任せて顔を寄せ、薄く開いた唇にキスを落とす──。


 チャ、と小さな音を立てて船室の扉が開いた。


「…………」

 室内は、ただ静かだ。

 ヴァン以外の誰の姿もない。

「…………」

 開いた扉からそんな船室へ一通り目を走らせて、その者はふっと小さく吐息をもらす。

 面倒くさそうなヤツがついてきているな──。閉める間際まで闇の奥を凝視していたメルクリウスなる人物の赤く鋭い瞳が、如実にそんなことを言っていた。



 船の食堂脇にある酒場のカウンターに寝っ転がり、アジーンが人目も気にせずイビキをかいて眠っている。

 彼の傍らには空になったウイスキーグラスが置かれたままになっているが、これはこの酒場にやってきたヴァンに──否、すべての客人にまず店主がふるまうサービス品であった。

「よろしければどうぞ」

 差し出されたそれを、カウンターに着いたヴァンはしばし難しい表情で眺めたのちに、

「アジーン、やる」

 と言ってスイと彼のほうへと押しやったのだった。

「おっ、いいのか!? いただきまーす!」

 人間の食物は何でも珍しがるアジーンは、大喜びでグラスの中身をあおり──、ほんの数分で大人しくなった、というわけだ。

  子供とはいえドラゴン、アルコール程度で死ぬことはないだろう──我ながらクズな思考だとは思うが、食後の一番落ち着きたい時間に、小うるさいアジーンにつきまとわれるのも面倒なのだ。どうなるかを考えず飲ませたのは言わば賭けだったが、酔ったアジーンが絡んでこなかっただけ、ヴァンのほうに運があったと言えよう。

 そして、この場で賭けに及んでいるのは、ヴァンの他にもまだ数名──。

「いやあ悪ィなぁ。でも、勝負は勝負だからよ?」

 などど言って相手の口を封じながら、テーブルを囲む数人の男たち。そのうちのひとりは、大敗を喫してしまったのか世界が終わったような顔をしていた。

「うわあ……可哀想ですねえ」寝くたれているアジーンを抱き上げたシノワが、小さな声で同情した。

「お嬢さん。あまり関わり合いにならないほうがいいですよ」と、横からバーテンの男がそっと口を挟んだ。「あいつら『常連』なんです」

「え、常連さん?」

「ええ。新大陸での仕事がいい稼ぎなのをネタに、『それを何倍にもできる』みたいな誘い文句で賭博をやってるんです。もちろん負ければ全額巻き上げられます」

「そんなっ」シノワは息をのんだ。「せっかくご家族のために大変なお仕事をされているのに、それを全部ですかっ?」

「……ノッたほうが悪いんですよ、こういう世界は」バーテンは完全に諦めた調子で言った。

 シノワには悪いが、ヴァンも彼の意見に同意だった。

 賭けをする職種、と言えば、ヴァンの冒険家もそれに当たるからだ。成功すれば大きな報酬を得られるが、失敗すれば人生終了。単にベット対象が命か金かというだけで、彼らギャンブラーと何ら変わりない内容なのである。

 だが──。

「おやおや皆さん、そこにカード落ちてますよ? 結構たくさん」

 誰もが負けた男に同情している通夜のような空気の中で、場違いにとおる声が響いた。

 シノワやヴァンがナンダナンダと振り向いて見ると、彼らの予期せぬ同行者であるメルクリウスが、テーブルの男らを覗き込んでいるところだった。

 彼が指した先は、席に着いた男たちの膝の上。よく見てみるとそこには、何枚ものカードが捨てられたように──否、隠されたように散らばっている。

「あ、これは──」誰かが言い繕おうとしたところで、

「いけませんね。こんな大きな勝負にイカサマですか?」

 メルクリウスは苦笑いを浮かべて遮った。

 よくあるヤツだ──ヴァンは思った。山から必要なカードを取る際、何枚か余計に引いて、わずかでも強いものと差し替える。強力な役を揃えられるものではないが、この酒場のように薄暗くて視界が効きにくく、しかも大型の賭けでカモが自分の手札に集中している時には極めて有効なイカサマの手口である。

 相手を騙して大枚を得ようと企むような連中だから、バーテンは関わらないほうがいい、とシノワに釘を刺したのだろう。もしかしたら、誰かの仲裁に逆ギレして暴れるくらいのことはしたことがあるのかもしれない。

「……」ヴァンは何も言わず、何が起こるかとハラハラしているシノワの横で様子を見るだけだ。

 逆に言えば、バーテンの態度からそこまで推測できる相手に、ああして平然と声をかけた上にイカサマ指摘までやってのけたメルクリウスの神経は並ではない。考えがあるのだろう。

「ああー、悪い悪い」男らのひとりがそんなふうに笑って言いながら、リストバンドを巻いた太い腕で膝の上のカードをかき集めた。「シャッフルしたときに零れたカードが、まだここにあったのを忘れてたよ、悪かった。こっちのミスだからな、仕切り直しといこうじゃないか?」

「え、仕切り直し?」

 被害者であった若い男がまさか、と言わんばかりに周囲の顔を見回す。イカサマをする連中だと判った以上、関わるなんて冗談ではない──という心境がありありと見える。

「まあまあ、今度は勝てるかもしれませんよ?」メルクリウスは青ざめた男の肩をぽんと叩いて言った。「今度は私がここでイカサマのジャッジをしますから、次の勝負は公平なものになりますしね」

「ほ、本当か?」被害者は信じられないように言った。「あ、あんたもこいつらの仲間だなんてことは……」

「とんでもない。私はあちらさんの連れですよ」

 さらりと指をさされたヴァンは、思わずストゥールから滑り落ちそうになるほど驚いた。まさかこんな場面で『関係者』に引き上げられるとは思ってもみない。

「そうですよお兄さん」シノワが余計なことを言った。「私たちは味方です、賭博は……あんまり良くないかもですけど、頑張ってくださいっ」



 一同の目が点になっていた。

 イカサマ集団の男たちも、バーテンも、シノワも。ただ唯一、カモにされていた青年が、それこそ世界が終わったかのように震えている。

 彼の手元──テーブルの上に開かれたカードは、ジョーカー一枚にエース四枚。いわゆるファイブカードの役であった。

(う、うそだろ──)

 イカサマ集団のリーダー格は、仲間に確認をする。このゲームにジョーカーは含んでいなかったはずだから。しかし仲間は『知らない、入れてない』と言わんばかりに首を振り、テーブルの隅に避けてあったそのカードはいつの間にか忽然と消え、相手の手元で滅多にない役を完成させている。事故としか言いようのない事態だった。

 こうなっては、先ほど膝のカードを集めながらリストバンドの中に忍ばせてあったストレートフラッシュなど何の役にも立たない。イカサマを見抜かれた手前、ロイヤルなど出しては元も子もない──と、ありきたりな役を用意したことが仇となってしまった。

(いや、もしかして)

 男はハッとする。

 あの金髪の男は、仕切り直しの際にカードを改めようとはしなかった。枚数も絵柄も確かめずただ開いたそれらをざっと眺めただけに留まり、公平を期するためと言って自らの手でカードを切り、時計回りに配布したのみだ。

 イカサマを仕込んでいたのは、まさか向こうのほうだったのでは──。今更ながらに気付く。さっきのイカサマを見抜けたのなら、相手がリストバンドという絶好の『隠し場所』を持っていることなど意識できるはずだ。しかし何一つとして改めなかったということは、青年を絶対に勝たせる自信があったからだと考えることはできないか──。

 だが、証拠がない。

 まったくない。

 メルクリウスなるこの男は、本当にただ単純にカードをシャッフルして、決められた順路で配っただけだ。そのどこにも怪しい挙動はなかった。

 イカサマだと騒いでぶん殴って、うやむやにすることはできたのかもれしない。だが今回ばかりは相手が悪い。鬼龍の正式な調査隊である彼らと悶着など起こそうものなら、それこそ自分たちが新大陸へ行く権利を失いかねない。

「くそっ……持っていきやがれっ」

 ばしんと金貨をテーブルに打ち付け、男は床を踏み抜く勢いで船室をあとにした。グループの者たちも納得のいかない顔をしていたが、それに続いて去っていく。

「あ、あの……おれ、こんなの受け取れません。誰か、あのひとたちに返して──」

 と、一転して勝者となった青年がそんなことを言いかけたところで、床やテーブルの上に散らばったそれらをひょいひょいと拾い集めたメルクリウスが、彼の手にハイと押し付けた。

「勝者が敗者に施しをしようなど、死体を蹴るようなものですよ」

「でも……」

「どうせ彼らは戻っては来ません。他人の分まで生きているつもりで、郷里の方々のために持ち帰ってあげてください」

「……」

 イカサマ集団と同じく、まったく納得のいかない顔をしていたわけだが、彼も結局は状況を飲み込まざるを得ないことが理解できたらしく、何度もこちらを振り返りながら船室から立ち去っていった。

「すごいですっ」シノワが興奮して言った。「やっぱり正義は勝つんですね!」

「何をもって正義とするのか、よく解りませんけど……?」メルクリウスは苦笑いしている。

「ねっ、ヴァンさんも見ましたよね? あれこそ天魔の宣教師たちが言う、神様の思し召しなんですよきっと!」

「だったらすごいよな」ヴァンは肩を竦めて言った。「シノワ。悪いけど、アジーンをキミの部屋で寝かせてやってもらってもいいか?」

「あ、そうですね…ちゃんと寝かせてあげなくちゃ可哀想ですね」シノワは頷いて言った。「いいですよ、お預かりします」

「恩に着るよ」

 また明日、と短い挨拶をして引き上げていくシノワを見送ったヴァンは、傍らで大きく伸びをしているメルクリウスに目をやった。

「やるもんだな」と、彼は言った。

「何の話でしょう?」と、相手はとぼける。

「さっきのイカサマだよ。……いや、計算って言ったほうがいいかな」

「……」

「あらかじめカードの並びをすべて記憶しておけば、シャッフルを的確に行なうことで、任意の順列を作ることができる。あんたはそうやって、彼にファイブカードが行くように山札を作ったんだ」

 それだけではない。

 声をかけながら寄っていくフリをして、彼らがイカサマを指摘され膝の上にカードに意識を集中させているうちにテーブルの上からジョーカーを掠め取り、シャッフルの際に混ぜ込んだのである。

 イカサマを見抜かれた手前、相手がロイヤルを仕込むのは自殺行為と思い留まる心理を利用した役作りなわけだが大胆なことはこの上ない。イカサマはやったもん勝ち、と仕事仲間に聞いたことがあったけれどまさにそれだ。それに言葉にすれば極めて簡単に聞こえるが、やる側に要求される技量は並大抵のものではない。シノワはメルクリウスのことを『手品が巧い』と言っていたが、一流のマジシャンならもっと別の方法を執るだろう。

 作為的なやつ。頭が良すぎるやつ。何もかもが演技で建前。

 それならきっと。

「──で?」と、ヴァンは言った。「あんたの、本当の名前は?」

「……えー」と、メルクリウスはいよいよ気まずそうに目を逸らした。「何のことでしょう?」

「あんたは気付いてないみたいだからひとつ教えといてやるけどさ。『自分の名前』を口に出す時、人はいろんな『サイン』を出すんだよ。でもあんたにはそれらしい仕草が何もなかった。サラッと言い過ぎた、っていうのかな」

「……」

「その動揺は本物だな」ヴァンは畳みかけた。「バレるわけがないとタカを括ってた証拠だ。正体を隠して俺たちに同行し、新大陸へ渡航しようとする目的はなんだ? 場合によっては──」

「ああ、わかったわかった」と、メルクリウスだった者は頭を掻きながら言った。「まったく大した洞察力だよおまえは」

 ガラリと口調が変わったけれど、逆に不自然さが消えた。これが本来のものなのだとすぐに感じ取ることができる。

「名前は?」ヴァンは改めて訊ねた。

「メビウス」彼はとうとう言った。「おまえを見くびって、バレないだろうと思っていたのは本当だ。それは詫びよう」

「……」

 俺みたいに、『見抜いてしまう人間』のほうがきっと稀なんだけどな──と、自惚れでも自賛でもなくヴァンはどこか他人事のように思う。

「おまえたちが新大陸と称する土地に用があるのも本当だ」メビウスは言った。「その地に降りて、この目で確かめねばならないことがいくつかある」

「それは?」

「──言えない」

 二人は一瞬、沈黙した。

 自分の正体を暴かれたメビウスからすれば、ここはすべて正直に述べねばならないところであろう。しかし『正直に言って』なお、目的を話すことができない──というのだ。

 じゃあダメだ、と意地悪く切り捨ててしまえるほどヴァンも薄情ではない。真にそうしなければならない状況とは、本当の名を訊ねられてそれでもシラを切り続けられた場合であり、それは、そうすべきではないと判断したメビウスの発言によって回避されている。

 彼は繕うように口を開いた。

「安心しろと私が言っても説得力はないだろうが、私の目的は、間違ってもこの世に害を成す事ではない。おまえたちを選んだのも、おまえたちなら問題なく、私と共に新大陸の深部へ至ることができるだろうと思ってのことだ。他意はない」

「あんた、何者なんだ?」

 ものすごく率直に、何の気なしに訊ねたつもりだった。

 ヴァンからしてみれば、どこかの国……あるいは地域の統括者くらいに思っていた。態度や言葉の使い方、果ては初対面の人間に対する振る舞いが自分の知るそういった者たちに近かったから。

 だから、メビウスから返ってきた言葉は、彼がまったく想像だにしないものであった。

「父親だよ。おまえたち天魔人が『神』と称し崇める存在の、…な」



 波の音が近い。甲板に出てきたのは、先ほどのイカサマグループの男らだ。

「おい、どうすんだよ…」誰かが言った。「もらった報酬の前金、全部出しちまってさ」

「帰ってから出る分だけじゃ、次の出向まで食っていけねえぞ」

「……」

「おい──」

「連中の中に、ひとりガキが居たよな……」

 ぽつりとリーダー格の男が呟いたのは、誰のことでもないヴァンのことだ。

 冒険などと縁遠い世界に生きているこの男らには、その『ガキ』の成りをした者が世界最高の冒険家であることなど知る由もない。鬼龍代表であるシノワやその用心棒においそれと手を出す気はまったく起きないが、『子供』ならば『少々の口止め』で何とかできるかもしれないなどと下衆なことを考えている。

 寝静まったところへちょっとお邪魔して、金になりそうなものを少し拝借するだけだ。もし目を覚まして騒がれたら、そのときはそいつの運がなかっただけのこと。

 もとはギャンブルに失敗した自分たちが悪いのだが、遊ぶ金どころか生活にまで窮した他の男たちも乗らざるを得なかった。国家から派遣された調査隊ならば、自分たちが見たこともないようなオタカラを持っていたって不思議では──。

「──」

 ぎゃっ、と、ほんの一瞬なにか聞こえたような気がした。

 海鳥が鳴いたのかと思ったが、もう夜もかなり更けてきている。こんな時間に暗闇を飛んでいる鳥など居はしない。

「おい、なんだ、いま……」

 男は背後の仲間を振り返って、

 そこで言葉を失った。

 立っているふたりの仲間には、首が無かった。首の代わりに血を噴き上げながら彼らはヨタヨタと後退し、そのままひっくり返って動かなくなる。

「な、な……」

「あーあ、これだからヴァンからは目を離せないんだよねえ……」

 あまりの出来事に頭がついて来ず、声すら硬直している男の目の前で、ゆらりと深い闇が揺らめく。

 歩み出てきたのは、黒い翼の魔人。声からして男だろうが、深くローブをまとっているのは、風避けのためか、それとも。

「ひとりでも平気だなんて、見え透いた強がりを言うところも可愛いんだけど……」と、相手は何か言っている。「それで危険な目に遭われたら、あとが大変だからさ? こうして僕が守っていてあげなくちゃいけないんだ」

 スラリと聞こえた音は、刃が鞘を疾る音。ローブの下から現れた相手の手は脇差し程度の剣を握っている。

 寸分の迷いも躊躇も無かった。

 刃の切っ先は男の口の中に吸い込まれるように突き立てられ、一瞬後にはもう首の後ろ側へ貫通している。

 一撃で延髄を断たれて即死できたのだから、変に勿体つけられるよりはまだマシだったかもしれない。ガッと鈍い音を立てて刃を引き抜いた拍子に傾いた男の身体を引き留めようとはせず、そのまま海へ落ちていくのを黒翼の男は見送る。

「これに懲りたら、もうヴァンにちょっかい出そうなんて考えないでくれよ?」と、もう居ない相手に向かって彼は言う。「せっかく今頃、気持ちよく眠っているはずなんだから……、あ」

 ふと何か思い付いたように、彼は踵を返す。

 甲板に残された死体は、彼がそこから遠ざかる頃になって、空間に開いた暗い穴に掻き消されて跡形もなくなっていた。

(そうだ。きっと僕が居ないから淋しがっているかもしれない。だって彼はいつも、眠る時は寒いって言うから。僕が温めてあげよう、いつものように)

 ひときわ強い潮風が、彼のまとうローブをなぶって奪い去り、ゼル・ガロンの姿を月光の下に晒し出す。──けれど、彼はそんなことなど気にしないで、浮足立つほど、そして鼻歌がこぼれそうなほど機嫌よく船の中へと入っていった。

(そう、あの頃のように──)

 血の匂いのする刃を、指先で遊ばせながら。




                                     END?(2016/12/29)