Reflection



 それは何日目の夜更けだったろうか。

 コト。不意にテーブルに置かれた白いマグカップに気付いて、ヴァンは十数時間かぶりに資料から目を上げた。

 消えかかったランプのほのかな光が照らし出しているのは、傍らに立ったゼルの姿。ヴァンの純白とは極めて対照的な、まるで夜空を映し取ったかのような闇色の翼が、淡い光を受けて煌めいている。

「真剣なキミの顔も素敵だけど、すこし休憩したほうがいいよ」

 そう言われて、ヴァンは初めて今の時間を気にした。目をやった時計は深夜をまわり、しかしまだ夜明けに至らない。

「帰ってるなら声かけろよ」

 ヴァンは手にしていた資料をテーブルに投げ、椅子の背もたれに身を預ける。

「ごめん」ゼルはどこか嬉しそうに笑った。「でも、しばらくキミを見ていたかったから」

 この家の住人は三人。このヴァンと、ゼル、そして……もうひとり居た。

(そう、──アデル)

 彼らは揃いも揃って腕の立つ冒険家として名を馳せており、各々に独立した仕事を持っている。だからこの家は誰もいないときもあれば、誰か一人か二人しかいないときもあり、三人が会していることはかなり稀であった。

 そんな三人の中でも際立つ腕利きで、おまけに学者の資格までも持つヴァン・クロウは、長らく家を空けていたかと思えば、唐突に資料や書物を山ほど持って帰ってきて、それらと睨み合ってひとつき近くも引きこもるなど極めて偏則的な生活を送っていた。

  今に身体を壊すぞ、などと周囲は心配するけれど、ヴァンは今の生活をけっこう気に入っている。確かに怪我もするし、得体の知れぬ病にやられたこともあったが、誰も足を踏み入れたことのない未開の地へ分け入り、未知の分野を解き明かす……溢れる興味が膨大な知識に変わる瞬間のエネルギーは途方もなく彼を惹きつけてやまないのだ。

「アデルは?」ヴァンが椅子にもたれたまま、届きもしないカップに手を伸ばすと、

「さあ?」ゼルは合図に受けたようにそれを取り上げ、手渡しながら答えた。「キミが姿を見てないなら、まだ獅童の古墳調査から戻ってないんじゃないかな?」

 ──そう、そんなものだ。

 これが冒険仲間であり、極めて親しい友人同士でもあるこの家の住人たちの日常。長ければ数ヶ月も顔を見ない日々が続く。でも、誰もさほど当人のことを心配しない。彼らが各自に、そう簡単に帰らぬ人となるような半端者ではないことを知り尽くしているからだ。

「そうか…」

 答えて、カップに口をつける。温かく甘いミルクが胃の底に染み渡るように感じて初めて、ヴァンは自分がしばらく飲み食いしていなかったことを思い出していた。

「……腹が減ったな」

「食べるよりも、それを飲んで朝まで寝たほうがいいと思うけどね」

「……」

 ぽつりと放った独り言をぴしゃりと潰され、ヴァンは黙り込む。

 おそらく──予想の話だが、ここで何か口に入れたところで、満腹になったらきっと猛烈な睡魔に襲われることになるのだろう。つい数分前まで持続していた彼の驚異的な集中力も、今やゼルの介入によって完全に断たれている。欲を言えば夜明けまでに仕上げてしまいたかったけれど、作業を中断して翌日に持ち越すタイミングのほうが先に来てしまったようだ。

 椅子から立ち上がって思いきり身を伸ばすヴァンの横で、空になったマグを回収しながらゼルがやれやれと言った。

「キミはひとりだと仕事以外のことをしなくなるから、まったく困ったもんだよ」

「仕事熱心なのはいいことだって、レディたちは褒めてくれるぞ」軽く肩を回しながら、得意がるわけでもなく、どうでもいいことのようにヴァンは答える。

「そんなのキミの本性を知らないだけさ」それこそどうでもいいとばかりにゼルは言った。「熱心なんてレベルじゃなくて、もうそれビョーキでしょ?」

「うるさいな、もう。寝ればいいんだろ」

 チッと舌打ちまじりの悪態で、ヴァンはゼルが開いてくれたドアを通って自室に退散する。もう眠るのだからランプを灯す必要もなく、倒れ込むようにベッドに転がると、その感触が異様に心地好い。これなら数分と待たず眠れそうだ。

「それじゃ、おやすみ」

 背中越しにゼルの声がする。

(──でも)

 一度は閉じた紺碧の瞳を開き、うつぶせたままヴァンはその声を追う。

 アデルはいない。

 ここにいるのは俺とおまえだけ。

 なのに、それで終わりか?

「キスくらいしていけよ」

 ……ほんの、一瞬の間。

 ぱたん、と扉が閉まって、室内が闇に沈む。

「──いいよ」

 応える声はすぐ傍で、闇の中から聞こえた。

 肩を掴まれ仰向けにされたと思ったら、何の躊躇も余韻もない口付けが唇を塞ぐ。

「ん──」

 ヴァンは目を閉じ、口を開いてそれを受け入れた。

 伸ばしかけた手にゼルの手が重なり、指が絡まる。繋がった唇の内側で、甘味の抜けきらない舌がそうなるように。

「うぅ、ん……」

 甘えるようにすり寄る舌を吸い、また己のそれを擦り付けて緩く歯を立てるゼルの愛撫は的確すぎてヴァンを芯から熱くさせた。彼の身体はとっくに疲労を認め、一刻も早い休息を求めていたはずなのに、今は施される次の感触を睡眠より期待し始めている。

「ん、…ぅあっ」

 ひとしきりの口付けを終えて、腰に下りた手が翼をさわりと撫でていくと、そこから全身に肌が粟立つぞくぞくした感覚が広がる。身を竦ませはするもののヴァンは抗うことはせず、口をつくままに上ずる声を発した。

 そんな彼の耳元で、首に点々とキスを落とすゼルが笑う。

「感度、好すぎないかい?」

「疲れてるんだよ、バカ」顔を背け、ヴァンは長く息を吐いて言った。「からかってる遊んでる暇があったら、さっさと終わらせろよな」

「わかってるって」

 訊ねて、求めるよりも早く、より深く激しい接触を認められて、応えるゼルの声が笑みを含んだ。

 そのまま眠るには少し窮屈だった服を脱がされ、柔らかなシーツと相手の身体とに挟まれた心地好さで意識が落ちそうになる。

「いいよ、ヴァン」そんな相手に不服を示すどころか、ゼルは促すようにそっと囁く。「眠れるなら、眠っていてくれても」

 下腹へ滑り、その先を握り込んだ手のひらの動作はヴァンの好みを知り尽くしていて、ゆるく溢れては流れ落ちる、ひどく安定した快楽を提供する。

「ん……、ぅん…」

 そんな感触が夢幻の色を帯び、現実との境目を失いそうになるのを、ヴァンは幾度も繋ぎ止めようと努めていた。

 それは自分に施してくれるゼルのためでもなければ、先に眠ってしまっては彼に悪いと思うのでもない。同じ落ちるなら最高の瞬間を経て落ちたい──という、相手に配慮しないどうしようもなく自分本位な思考であった。

 それに、どうせゼルだってアデルが居ない今、俺さえいいなら俺に触れたかったに決まってる──ヴァンは確信めいてそんなふうに考えている。彼はゼルに愛されていることに絶対の自信があり、それゆえ自分の言動ひとつで相手の一切を支配できると疑いもしていない。

(ほら、今だって)

「ヴァン……」片手で相手を蕩かしながら、顔を覗き込んできたゼルが恍惚と呼ぶ。「好きだよ、ヴァン」

 そうして彼は口付けをしようと顔を寄せる。達するとき、いつもキスをほしがるヴァンのために。

「ゼル……ッ」

 吐息まじりの声を震わせ、ヴァンは彼に縋ろうと両腕を伸ばす。


 そのとき、その相手が、唐突にゼルではなくなった。


「……え?」我にかえったようにヴァンが唖然とすると、

「あー……」相手が、バツが悪そうな半笑いになる。「どーも、スイマセン。なんかうなされてるみたいだったんで声かけたんですけど、……大丈夫ですか?」

 その者はまったく知らない男だった。

  目付きはきついが澄んだ血のごとく鮮やかな瞳を持ち、その色は、身にまとう黒の装束にもあしらわれていてそれが妙に似合っている。柔らかなくせがある金色の髪を朱の組紐で結い上げた姿には、その長身がなければ一見して女に間違われても文句の言えない優美な端正さがあった。

 背に展開している闇色の翼を見るに天魔の者のようだが、少なくとも天魔の都市で、こんな風貌の男は一度として見たことが無い。

 いや、それよりも。

(やばい、俺またやった──)

 数秒の空白を経て正気に戻ったヴァンは、何を言うでもなく相手の腕から逃れると、ふと目についたWCの表記がされた奥の通路へ脱兎のごとく駆け込んでいった。



 異例の速さで聖杯探索を成し遂げ、数多の冒険家たちの度肝を抜いたヴァンが新大陸への渡航権を獲得した数日後……つまり今朝、目指す土地への船が出る港町へと発つ彼を見送った友人にして専属医でもあるオニキスは、それこそ耳にタコができるほどヴァンに言って聞かせていた。

 新大陸という未知なる場所での活動は、たとえキミがそうと認識していなくとも大きなストレスになる、処方した薬は忘れずに服用してくれ。あと、どんな反作用が出るか判らないからアルコールにはくれぐれも気を付けるように──と。

 だが到着した港町の、同じく新大陸へ渡る冒険家たちの集合場所になっていた酒場で、ヴァンはそんな言い付けをすっかり忘れて振る舞い酒をいただいてしまった。古巣でたびたびやらかした経験から、特に人前で眠ってしまうことには強く注意していたはずだったのに、このたび彼の黒歴史が一ページ増えてしまったようである。

(死にたい。今日という今日は本当に死にたい)

 壁をぶん殴っていくつ穴をあけても足りない自己嫌悪に苛まれ、ヴァンは洗面台の前でひたすら頭を抱えていた。

 これを機に禁酒を、と勧めるのは無駄である。ヴァンはとにかく『禁欲』というものが大の苦手なのだ。美しい女を見れば寄っていきたくなるし、好物の酒を見つければ飲みたがる。幸いというべきか本職・冒険家としてのウデが世界随一であるため、周囲には多くの欠点を黙殺してもらえているが要するに我慢が利かないのである。だからオニキスも、ヴァンに酒を禁止するのでなく『気を付けろ』と言うに留めたのだ。

(あああああああ! しかもなんだって、よりによってこんなときにアイツのあんな夢を見るんだよ!? こんなことなら『あの夢』でこの酒場をブッ飛ばしてたほうがよっぽどマシだ、くそっ、全部アイツのせいだっ)

 おまけに自分の体たらくを棚に上げてこの責任転嫁。しかし世界各国の冒険家たちが憧れの対象として、あるいは人生の目標として名を挙げる『冒険野郎ヴァン・クロウ』とは、何を隠そうこの男に他ならなかった。人の心は覗いてみないとわからないものだ。

「おーいヴァン! ヴァン、居るかぁ!?」

 いきなり無遠慮にバンバンと背後の扉を連打されて、ヴァンは飛び上がりそうなくらい驚いて振り向いた。その声には覚えがある。

 うかがうようにそっと扉を開けると、そこに滞空していたのはコロコロと丸っこく、そして真っ黒い体躯を持ったドラゴンの子供だった。

「おう、ヴァン!」アジーンは嬉しそうに言った。「船が港に入ってきたぞ! アレに乗るんだろ? シノワたちも待ってるぞ、早く行こうぜっ」

「ハイハイ……」

 げんなりと返事をしながらも、ヴァンは周囲をぴゅんぴゅん飛び回るこの仔竜に感謝すべきだった。こいつがこのくらい強引に引きずり出さねば、彼は船が来るどころか出港する時間になってもここから出て行かなかったであろうから。



 新大陸へ向かう船は大きな商業用の帆船で、現地で着々と進んでいる冒険家用港町建設のための資材や人材の運搬を兼ねている。現地から戻ってきた者らがこれから現地へ向かう者らと業務の引き継ぎを終え、必要資材の搬入を待ってからの出港となるので、すぐに出立というわけにはいかない。

 港はそんな労働者らを迎えにきたり、あるいは見送りのためにやってきた家族らの姿が目立つ。航路が確立されたといっても現地が未開の地であることに変わりはない。無事の帰還を喜び、そして祈る声が交わされてやまなかった。

「はわわ……」目を潤ませたシノワが、抱き合うある親子の姿に感動している。「よかったですねえ……息子さんが無事に戻ってきてくれて、お母さんもほっと一安心でしょうねえ」

「シノワ。ヒトのことより自分のことを心配しろ」彼女の傍らに立ったレグルスが淡々と言った。「オレたちも今からそこに行くんだ。……というか、労働地なんかよりずっと危険な場所なんだぞ」

「わ、わかってますよ!」ビシッと背筋を伸ばし、シノワは取り繕うように答えた。「もちろん油断なんかしてませんとも! ……あっ、ねえヴァンさん! 私、さっき面白いヒトにお会いしたんですよ!」

「……」

 解っているのかいないのか今ひとつハッキリしない……というよりは、絶対に解ってないふうのシノワの様子にレグルスは忠告をする気もなくしたようだ。

 まあシノワ自身も全滅した調査団の生き残りという相応の実力あっての立場であろうし、レグルスもそんな彼女の用心棒として雇われた身なのだから、万一のときには自分が護ればいいだけの話と割り切ったのかもしれない。

「面白いひと?」

 忙しない資材搬入の様子を眺めて気を紛らわせていたヴァンは、彼女の話に乗ることにした。黙り込んでいては、未だ尾を引きまくっている自己嫌悪に押し潰されてしまいそうだ。

「はいぃ!」シノワは嬉しそうに返事をした。「私たちと同じく新大陸に向かわれるみたいで、とっても手品がお上手なんです! どこかで待機されてると思うんですけどぉ……」

「あーっ、いたいた! こちらでしたかぁ!」

 シノワがきょろきょろと辺りを見回していたところで、彼らの背後から若い男の声がした。誰かと思い真っ先に振り向いたヴァンは、そこにいた者の姿を見て自分の頬が軽く引きつるのが判った。

 それはつい先ほど、待合酒場で会った黒翼の男だったのだ。

「あっ」続いて振り向いたシノワがパッと表情を輝かせる。「どうも。さっきぶりです、メルクさんっ」

「どうもどうも、シノワさん」固まっているヴァンの横をするりと通り過ぎ、その男はシノワと軽く握手を交わす。気さくというよりは物怖じしない性格のようだ。「聞きましたよ? あなたがた、あの冒険野郎ヴァン・クロウさんのパーティだそうじゃないですか」

「……」

 唖然と開いていた口がぱたんと閉まり、ヴァンはつい反射的に自分の気配を消す。目の前にいる以上、この場から瞬間移動で撤退でもしない限りは無駄なのに。

「それで、肝心のヴァンさんはどちらに?」と、その男はそこにいる面子を順繰りに見て、レグルスに目を留めた。「その百戦錬磨の貫禄……もしかしてあなたが?」

「ちがう」子供の片言のように言って、レグルスは本物を指さした。「ヴァンはあっち」

「えっ」示された相手を振り返った彼は、意外そうに目を丸くする。「あなたが、ヴァン・クロウ……?」

「はい、そうなんですよ!」シノワが余計なことを言う。「見た目は成人前だからとてもそうは見えませんけど、実はこの道三十年の超ベテラン冒険家さんです!」

「おいコラ貴様、頭が高い!」ヴァンの肩口で、更にアジーンが出さなくていい口を挟んできた。「ヴァンはこの俺様の相棒だぞ! おまえみたいな一般冒険家がそうホイホイ会える相手じゃないんだからな、ちゃんと有難がれよ!」

 今すぐこの黒竜の子供をそこらの適当な麻袋にねじ込んで海に投棄したい衝動が込み上げているヴァンの前に、黒翼の男は改めてやってくる。

「やー、あなたがヴァンさんでしたか。そうとは知らず失礼を」彼は握手を求めながら、澱みなく言った。「私、メルクリウス・D・コンセンテスと申します。皆さんと一緒に新大陸へ渡航するメンバーのひとりです。どうぞメルクとお呼び下さい」

「は、……はあ、どうも、ヨロシク」

 ヴァンは笑って答えたつもりだったが、どうしても苦みが強くなってしまう。

 ある程度以上の観察力を持つ者は、握手ひとつで相手をだいたい見抜いてしまうというけれど、実はこのときヴァンもすでに、このメルクリウスなる者の本質の一部を認識するに至っていた。

 この男、どうも作為的だな──改めて面と向かった相手への第一印象はそれだ。

 だいたい、初対面の他パーティに対してこの男の言動は流暢すぎるのだ。頭が良すぎる、と言ってもいい。他者……否、ヴァンたちへの応対の態度や言葉をあらかじめいくつか用意してあって、そこから適切なものを選んでいるという感が拭えない。

 こうした言動をとる『性格』に該当するのは、基本的には学者、医師などの職種を持つ者。パッと見には人間嫌い・人付き合いが下手と思われがちだが実はそうではなく、相対する『ヒト』でさえも自分に発生する『事象』として捉えて対応する、極めて知力の高いタイプの者なのだ。

 それについ今しがた、レグルスにヴァンを示されたとき、彼はヴァンを呼び捨てにした。これだけでも、この男が他者を敬称付けすることに慣れていない──つまり一介の冒険家などではなく、人の上に立つ存在である事実がうかがえる。

 ここまでの流れを作為的に構築したというのならば、この男が次に言い出しそうな言葉は想像に難くない。

「他に同伴者が無く、独りでの渡航には不安があったところだったんです」と、ヴァンの予想に違わぬ言葉を彼は放った。「もし皆さんに不都合がなければ、私もあなたがたの旅にご一緒させていただけませんか?」

「はいっ、もちろんいいですよぉ!」ぱん、と手を叩いてシノワが言った。「危険な場所ではありますけど、頼れる人は多いに越したことはありませんっ」

「……」

 レグルスが何か言いたげにチラリとヴァンを見てくるけれど、ヴァンは何も言わずに肩を竦めて見せるのみだ。

 見知らぬ他人のパーティ参入に対する決定権も主導権も、レグルス同様、ヴァンには無い。今回のヴァンの新大陸渡航、及び現地での神殿探索はシノワからの依頼によるものだからだ。クライアントであるシノワがいいと言った以上、彼らはそれを受け入れるより他にない。

 ──と、頭では解っているのだが。

「どうした、ヴァン」アジーンが首を傾げながら言った。「そんな遠く見て、船に乗る前から船酔いか?」

「ああ」手をひらつかせて仔竜を追っ払い、とてもそう見えないはっきりとした口調でヴァンは相手の言葉を肯定する。「だからちょっと放っておいてくれ」

 こんな人物が神殿探索に同伴するとは聞いていなかったので、他の天魔貴族や鬼龍商人などと同じく別口で渡航権を得て新大陸へ渡る者なのだろうと推測はしていたが、そんな連中と同等に視界に入れなければ何のことはない……とは言えない間柄になりつつある気がして、彼は挨拶も適当に切り上げてこの場から退散したくて仕方がないところだった。

 酒場での強烈なインパクトのせいで、こいつの顔を──否、『彼』のそれによく似た黒い翼を見るだけでさっきの淫靡な夢の情景がまざまざとよみがえる。三年前にあれほどの惨事を経験しながらそれでも未だにあんな夢を見ることに苛立ちを覚える一方、身体の芯に残る火照りまでも意識してしまう自分を張り倒したくてたまらない。

 オニキスに処方されたあの薬をもう少し多めに飲んでおけば、こんな焦燥を感じなくても済むのだろうか?

「ヴァーン、さんっ」

 どん、と背後からぶつかるようにして、メルクリウスがヴァンの首に腕をかけてくる。

 ぎょっとして返答も挙動も息も停まった刹那、

「まあまあ、そんな警戒しないでくださいよ」誰にも聞こえぬよう、髪が触れ合うほどの距離で彼は言う。「さっきのことは、誰にも言いませんから」

 は、と、ヴァンは小さく息をのむ。

 ただそれは、やはり知られていたという危惧や落胆でもなければ、弱みを曝したという後悔でもない。あの事実は、この者が永久に封をしてくれる──という、肩の荷が下りたような安堵であった。要するにヴァンは、ふとした拍子にこの男があのことを人前で口走るかもしれないことに、尋常ではない危機感を抱いていたのだ。

 だがその可能性はたったいま消えた。ことの重大性を認識された上での、『言わない』という確かな約束。それが得られたから、ヴァンはもう彼の挙動に怯える必要はない。

 一瞬、ヴァンはメルクリウスの目を見つめた。そのとき、人懐っこく笑っている彼の目が鋭利な光をちらつかせたような気がする。

 見覚えのある、そして心地の好い、自分の内側を容易く見透かす冷淡さ──。

「……当たり前だろ、そんなこと」

 ばしっ、と相手の腕を弾いたヴァンは、さっさと踵を返して言い捨てていた。

「ヴァンさん、メルクさん?」アジーンを頭に乗っけたシノワが、彼らの様子を気にして訊ねる。「どうかされましたか?」

「悪いな、何でもないよ」ヴァンはさらりと嘘を言った。「彼が、サインがほしいって言うからさ」

「ええ、何と言っても御高名なヴァン・クロウさんですからね」ヴァンの突発の嘘に、メルクリウスは動揺も無く平然と乗ってくる。やはり頭の回転は悪くない。「でも、今は仕事中だからということでお断りされちゃいました」

「探索が終わって無事に戻って来られたら、餞別にサインくらいいくらでも書いてやるよ」

「ありがとうございます。楽しみにしてますよ」

 この言動。ヴァンもそうだが、無事の帰還を前提に話を進めている点から見て、メルクリウスは自分の能力に相当な自信を持っていると見える。

 シノワも言っていたことだが、危険が確定した場所への出向には、ひとりでも多くの腕利きが居るに越したことはない。

 特に未開の土地での探索においては、遺跡や神殿攻略などの『本番』よりも、そこへ至る過程での事故による死傷者が非常に多いのだ。ジャングルでちょっと草木に足を引っかけただけで死に至る毒を受けるケースなんてザラだし、食料に窮して不用意に下手なものを口に入れてあっけなく死ぬ者だって決して少なくはない。

 ヴァンが単なる冒険家だけでなく、様々な分野の博士号までも取得しているのは、過去のそういった連中を見てきた経験から自衛のために知識を身に着けた結果であり、そういった観点ではメルクリウスのような知識人が増えるのは有難い話なのだ。

「大丈夫か、ヴァン?」彼の肩口に戻ってきたアジーンが心配そうに言った。「船酔い、治ったのか?」

「治ったよ」

「そうか! じゃあ、もういつでも出発できるな!」

 そもそも陸で船を見ただけで気分が悪くなるくらいなら、ヴァンは冒険家になどなってはいない。だがヴァンはそこに突っ込まなかった。アジーンは素直にヴァンの体調回復を喜んでいるのだから、その気持ちに水をさすのはよくない。

「お待たせしました!」遠くから、船員らしき大柄な男が周囲に響き渡る大声で言った。「資材の搬入が終了しましたので、新大陸へ渡航されるお客さまは、どうぞご乗船ください!」

「いよいよですねっ」両手に拳を作ったシノワが、皆を振り向いて言った。「行きましょう、皆さんっ」

「ああ」レグルスが答え、のしのしと歩き出していき、

「良い船旅であることを祈りましょうか」と、メルクリウスが続く。

 そんな彼らをわずかに見送るように間を置いて、ヴァンは精神を統一するように目を閉じ、そして開く。

(いくぞ、幻双竜大陸!)

 ここ数時間でもっとも清々しい気分で、ヴァンは船へと続く木製のタラップへと足を踏み出していった。

 陸地を離れるときに頬を撫でた、海原を渡る潮風の感触が心地好かった。

 今は、とても。




                                     END(2016/09/18)