腐蝕の



 永遠にも見紛う石の回廊を、ヴァンは飛翔する。

(ああ……まただ)

 とっくに息は上がっていて、気道と肺がきつい痛みを訴えていたけれど、構わず彼は必死で空間を駆けた。

(やめろ)

 つい今しがた彼の耳に響き渡った、おぞましい絶叫。

 ぱったりと途切れたかと思えば、あとに続いたものは何もなく、ただ静寂が降るばかり。

(やめてくれ)

 言い知れぬ焦燥と、押し潰されそうな不安。指先に至るほどの戦慄がヴァンの全身を支配する。

 だってそれは、──相当歪んではいたけれど、ヴァンが愛してやまぬ生涯無二のパートナー、アデル・アルスターのものだったのだから。

(見たくない……もう、見たくないんだ)

 回廊の終わりは見えなかったが、ゆく手の壁に分かれ道が見えた。

 そこだ、ということを彼は知っている。

 そこはこの遺跡の玄室。最深部に位置し、あらゆる秘宝とともに旧き王が眠る前人未到の領域──の、はずだった。

 果たしてヴァンがそこで見たものは、無骨な石の床に広がる鮮血と、倒れ伏した相棒の姿。

「アデル!!」

 半ば悲鳴にも近くヴァンは叫んで、彼に駆け寄った。

 血だまりの中に膝をつき、伏せたアデルを抱き起こす。

(やめろ、見たくない!)

 ヴァンの息がヒッと震える。

 頭がごろりと上を向いて、本来の人相も判らぬほど切り刻まれた顔があらわになった。どくん、とひとつ強く打った心臓の鼓動とともに、すぅっと血の気が引いて気が遠くなる。

 ヴァンはアデルの色んな顔を知っていた。怒った顔も、喜んだ顔も、嬉しそうな顔も、優しい顔も、何もかも。けれど今、彼の腕の中にいる相棒は、もうどんな顔をしているのかも判らない。

 それだけではなかった。

 彼であったものはいろんななところに散らばっている。

  気付いてみれば腕も、足も、翼も──アデルの身体を構成していたパーツは本来の身体から切り離されて、そこら中に打ち捨てられていた。すぐ近くにあった彼の腕へ反射的に手を伸ばしたヴァンは、その肌の冷えゆく温もりと、まるで作り物のような肉感の無さに戦慄をいっそう高められた。

「あ……ああ……」

 これまでどんな苦難にも危機にも決して揺らがなかったヴァンの心が、今にも崩れそうな軋みを発している。無意識のうちにどさりと全体重が床に落ち、視線を動かすことも、数分前まで友であった者を投げ捨てることもできないまま、無残に成り果てた顔のない貌を目に映し続けることしかできない。

「アデ、ル──」

 唖然と、呆然と、あらゆる意識が薄れゆくヴァンが唯一口にしたのは彼の名のみ。

 そのとき、彼の背後にそっと歩み寄る気配があった。伸びてきた手が彼の肩口に触れ、するりと腕が首に巻きつく。

 優しく、温かく、静かに……誰かに抱きしめられる感触。

 耳元で囁く声が聞こえた。

「まだその名を呼ぶのかい、ヴァン……?」

 ──ざんっ!!

 次の瞬間、背中の……否、腰の翼にひやりと冷たい感触が疾った。幻覚のような一瞬を経てそれは猛烈な熱と激痛に代わり、ヴァンの全身を突き抜ける。

 ショックのあまり声も出ず、引きつけを起こしたようにのけぞるヴァンを捕えて離さず、あまつさえその背に頬を寄せて恍惚と息を吐くのはひとりの男であった。

 ぐいっと後ろ首を引っ張られるまま投げ出された石の床で身を固く丸め、ヴァンは脈打つ激痛に苛まれる。傷がだらだらと血を流す感触が熱くてたまらない。このときになってようやく、彼は自分の翼が斬り飛ばされたのだと認識する。

「う……、ぅぐううううぅぅ……っ」

 意識が飛びそうな苦痛の中でヴァンが辛うじて視線を巡らせれば、そこには覚えのある仲間の姿。

「ゼル……ッ?」

 抜き身の──鮮血にまみれた剣をぶら下げて立っていたのは、ヴァンのもうひとりの仲間、ゼル・ガロンだ。

「ちゃんと見たろ、ヴァン?」ゼルは言った。「アデルは死んでいたろ? キミがもうあいつのツラを思い出さなくてもいいように顔をズタズタにしてやった。化けて出てもキミと話せないように喉を切ってやった……」

 そして二度とヴァンのもとへ行かぬように足を落とし、決してヴァンに触れぬように腕を打ち捨てた──皆まで聞かずとも、もう彼はその言葉を覚えてしまって久しい。

 そう、まるで呪詛のように。

「さあ、ヴァン」ゼルは嬉しそうに両手を広げ、やってくる。「邪魔者がいなくなってやっと二人きりだ。ゆっくり楽しもうよ」

 起き上がることもできないヴァンの傍へ来たゼルはすっと膝を折ると、やおら腕を伸ばしてヴァンの髪を掴み上げ、口付けをした。

「う、っん……!?」

 相手の行動の意味がわからずに驚愕する相手に構わず、ゼルは接触を深めて舌をさし込むと、ヴァンの舌にぬるりと絡みつく。

「やめ…ッ、離せっ!」

 首を振って逃れたところで、ヴァンは思いきりゼルをぶん殴っていた。起き上がろうとして、無くした翼の痛みに邪魔をされるものの、彼はやっとのことで自分の武器を握る。

「何のつもりだゼルッ、なんでこんなことを──」

 相手にそれを問い質そうとしたヴァンの視界の隅を、漆黒の光が掠めた。

 えっ、と驚愕する間もない。マチルダを握ったほうはもちろん、その反対側も──要するに自分の両腕が、ゼルの撃ち出した球状の闇に飲まれて消失していたのだ。

「邪魔だねぇ、その腕」

 雑草でも刈り取るかのように平然とゼルは言った。そうしてヴァンが自分の身に起こった惨事を理解するより早く彼を蹴り倒し、背に剥き出しになっている翼の傷を思いきり踏みつけにする。

「ぎゃああああっ!!」たまらずヴァンの口を絶叫がつく。

「ああ、イイよヴァンッ」ゼルが声を高ぶらせて言った。「キミの声はいつでも、どんな時でも最高だッ」

 至福の笑みを深め、幾度も、幾度もゼルはヴァンの傷を踏みにじった。

 それこそ激しい叫びが掠れ、痙攣まじりの呻きとなって弱く崩れていくまで。

 意識が飛んだ回数などもう判らない。息を荒げたゼルの追撃がやっと止んだときには、腕も翼も失ったヴァンは息をしているだけで精一杯の状態だった。

「ああ、ヴァン……きれいだよ……」

 ゼルは両手を伸ばして彼の頬を包むと、再び口付けに至る。

 ぐっと深く繋いで一切の抵抗がないヴァンの口内をたっぷり舐め回し、角度を変えながら舌を啜って甘く噛む。青い髪へ指をさし入れて金色の領域へかき上げ、指の隙間を流れるさらりと柔らかい感触をめいっぱい楽しんでいた。

 刃物でヴァンの着衣を裂き、暴いた肌に唇を滑らせて、行動はどんどんエスカレートしていく。こいつがどうしてこんなことをするのか、何故アデルを殺したのか、それはヴァンが問うまでもなく、ゼルが自ら口にしてくれる。

「愛してるよヴァン……」ゼルは恍惚と言った。「キミは僕だけの花嫁だ」

 キミには腕も翼も必要ない。そう、何もなくていい。キミの世話は全部僕がしてあげる、キミが求めるものは何でもあげる。

 冒険なんて称してキミを危険に晒すばかりのアデルなんかより、僕のほうがずっとキミを大切にしてあげられるんだ。ようやくあいつを始末できた、これからはずっと一緒だよ──。

 そんな言葉を繰り返しながら引きつり半分に笑うゼルの手や唇は、ヴァンの身体を余すところなく探り尽くす。尊いものを慈しむように、素肌を晒した彼の脚に舌を這わせると、とうとう堪え切れぬとばかりに身体を重ねてくるのだ。

 痛みと失血で辛うじて意識を保っている状態であったはずなのに、ヴァンは、ゼルに身体を開かれた時の衝撃をこれでもかというほど鮮明に覚えている。

 その嫌悪は、いっそこのまま殺されたほうがはるかにマシだと思わせる。

 その恐怖は、嫌だという拒否を言葉ですら発することを許さぬ重圧となって喉を塞ぐ。


(………や……だ)

 悪夢の体現に等しい律動の底で、深く沈んでいた意識が揺らぎ浮上する。

 彼は何とかしてそこから逃れたくて身動ぎをした。


「いやだっ……」


 言葉というには少し遠い、引きつれた自分の声で意識が覚醒した。

 耳にざわめきがよみがえる。流れ込むのは大勢の楽しそうな話し声、笑い声。

「おうヴァン、どうした? 大丈夫か」

 誰かがそんなことを言いながら、ヴァンの肩をぐっと掴む。その瞬間、ぎりぎりまで張り詰めていた彼の感情がばちんと弾けた。

「うわあああぁ──────っ!!」

 肩口の手を振り払い、ヴァンは両手で頭を抱えて絶叫を上げていた。

 声も音も何もかもがぴたりと停まり、場がシンと静まり返る。

 そこは仄暗いオレンジ色の灯に照らし出された木造の大ホール。所狭しと設置された丸テーブルに着いた大勢の男や女、その手に握られたジョッキやグラス……ツンと漂う強い酒の匂いが、あわや発狂するところであった彼を急速に現実へと引き戻した。

 そこは通い慣れた街の酒場で、自分はそんなホールの片隅に置かれた感触の好いソファから起き上がったばかり。要するにうたた寝をしていたようだ。

「あ、れ……?」

 夢。

 ……夢だったのだ。

 何度も繰り返し見るあまり、内容も展開も相手の言葉も自分の返答も、何もかもを覚え尽くしてしまった、タチの悪い異常な悪夢──。

(ああ、やっぱり夢だった……)

 震える息とともに、ほーっと全身から力が抜ける。

「てめえコラ、ヴァン!!」

 と、店の奥から店主の男が怒声をぶつけてきた。

「ウチで寝コケんじゃねえって何回言やあ解るんだ、このトリ頭! てめえが寝ぼけて暴れたせいで、この街の酒場が何件吹っ飛んだか解ってんだろうな!?」

「ぅあ……」たまらずヴァンの表情が引きつる。「あっはははは、悪い悪い……」

「笑いごとじゃねえ、こちとら生活がかかってんだぞっ。あといい加減、ツケも払って──」

「あーっとマジで寝コケてる場合じゃなかったな!」ヴァンはわざとらしく手を叩いて、目を逸らしながら相手の言葉を遮った。「俺、用事思い出したから行くわ! マスター、また今度な!」

「待ちやがれ! この無銭飲食野郎!!」

 背中に刺さる手厳しい言葉を土産代わりに、ヴァンはぴょんと飛び出すように酒場をあとにする。

 ──ただ、彼はちゃんと解っている。この街に住む者たちは誰も口こそ悪いがイイ奴らばかりだ。今の店主だって長らくの常連であったヴァンを家族同様に思ってくれていて、時折思い出したように請求してくるものの、本当に力ずくでツケを巻き上げようという気はない。

 第一、本当に払えるだけの財力があるならとっくに払っている。『根はイイ奴』というのはこの街の古い住人であるヴァン本人にも適用される法則であり、店主もヴァンが本当に借りを踏み倒すようなクズではないとちゃんと知っているのだった。

 星空の下、酒と女の匂いが入り交じる夜の往来を歩きながら、ヴァンはふーっと長い息を吐く。両手を軽くポケットに突っ込もうとして、それがうまくいかないことに彼は気付いた。

「……」

 手が、指先が小刻みに震えている。

 それをぐっと握り締めて押し潰す。けれど、ぞわぞわと背筋を這い上がる冷たい感覚だけは拭いようがなかった。

 肩口に置かれた手。首にまとわりつく腕。背にぴたりと縋る身体の重み。耳にかかる吐息──。そのすべてがリアルな肉感を伴ってヴァンの身体に再生される。

 それは単なる夢の記憶などではなく、三年前に彼が確かに経験した現実であった。今もなお彼を蝕むあの悪夢は、鈍い刃をもって魂の岩壁に刻みつけられた、深くおぞましい傷痕そのものなのだ。

「──ヴァン」背後で誰かの呼ぶ声がした。

 切り立つ断崖にも等しい、甘く優しい囁きまでもがよみがえった気がして、ヴァンは息をのんで振り返っていた。

 そこに立っていたのは、本当なら顔も見たくないゼルなんかではない。パリッとノリのきいた白衣をまとった鋼人の男だ。

「先、生……?」

「家にキミを訪ねたら留守だったのでね、さがしていたのだよ」

 彼は、名をオニキスといった。この街に拠点を構える、世界屈指の技師にして医師でもある男で、ヴァンとはもう十年以上の古い付き合いを持つ者だ。

「何だよ、こんな時間に……あ、いや」ヴァンは悪いことをした子供のように相手から顔を逸らし、言った。「用があるなら明日にしてくれないか。今日はもう帰って……」

「眠れるのかね? そんな状態で」

 あまりにもあっさり見抜かれたヴァンがうっと言葉に詰まる。

 オニキスが無造作に伸ばした手がヴァンの腕を掴み取り、ぐいっと持ち上げる。しかし手のひらや指の稼働を確かめるように見つめたところで、すぐに焦ったヴァンに振りほどかれてしまった。

「細部の挙動にエラーが出ているな」ヴァンの態度など特に気に留めもせず、彼はてきぱきと言った。「神経の過度な興奮が伝わっているようだ。家に戻る前にうちに寄れ。調整してやる」

 まったくこの男にはかなわない──呆れと諦めに似た感情に任せるまま彼は軽く息を吐き、無言のままに同伴を了承した。

 赤の他人が相手であったなら、ヴァンは腕を振り払った時点でこの場を立ち去っていたことだろう。それら己の感情と行動のすべてが、心から信頼するオニキスを前にした莫大な安堵から来るものであったことを、彼は知らないままだった。



「未知の新大陸?」

 ヴァンは相手の言葉をオウム返しにした。

「ああ。公式の調査団が西の果てに発見したらしい」

 オニキスは作業を止めないまま答える。

 人工の光で煌々と明るい室内。椅子に腰かけたヴァンの左腕は今、オニキスの手元にある。三年前の惨劇で失われた彼の両腕は、この男に作り上げられた最高技術の粋を集めた義手によって補われているのだ。

  魔人と呼ばれる翼を持つ人類。その体格や体重のすべてを軽い羽ばたきひとつで飛翔させる能力を持った、未だ未知の領域である翼までを修復する術はない。が、ヴァンは鋼人たちの技術のひとつである『エンジン』に強い興味を持っており、たまにそれを翼代わりに装着できないかと冗談半分に言って周囲を呆れさせることがあった。

「ゼルの追跡・捜索も結構だ」オニキスは抑揚なく言った。「奴はアデルと、キミの腕と翼の仇。いつかキミの手で決着させねばならんことだろう」

「……」

「しかし、その前に先立つものが底をつきそうではないか?」

「う……」

 一瞬前までの思い詰めた沈黙はどこへやら、ヴァンは痛いところをつかれたように呻く。

 さっき、酒場で店主が怒鳴った言葉がよみがえる。てめえが寝ぼけて暴れたせいで、この街の酒場が何件吹っ飛んだか──。

「キミの神経との同調、内蔵したギミックの出力……義手の調子が極めて好いことはここしばらくで痛感させてもらった」オニキスは神妙に言った。「しかしだね。キミが破壊した酒場の修理・改修に伴う費用請求が、いよいよ私のところにまで来るようになっているのはいかがなものだろう?」

「ハイ…スイマセン」

 子供のように縮こまり、ヴァンは申し訳なさそうに言った。

 と、そんな彼の目の前に、ぱさりと数枚の書類が置かれる。まさかそこまで法外な請求書が……と思い、冷や汗まじりに恐る恐る目を通してみると、そこには。

「天魔王がついに『真竜の聖杯』の在り処を突き止めた」オニキスは、その書類の文言を噛み砕いて話した。「しかし政府直属の調査団は、聖杯が眠るダンジョンの攻略に随分と手間取っているらしい」

「へえ……?」

「政府は今、腕利きの冒険者を内外問わず募集している。──どうだ、ひとつ行ってみないか?」

「俺が?」ヴァンは驚いたように言った。

「君ならばこの程度、肩慣らしにちょうどいいだろう」さらりとオニキスは言った。「聖杯を獲得できれば政府とのパイプができる上、新大陸への渡航権も得られる。……それに、新たな秘境が発見されたとなれば、ゼルに関する情報が入ってくるかもしれん」

「……」

「何よりキミの復帰を世界に知らしめるにも充分なチャンスだ。新大陸発見で世界は空前のトレジャーブームを迎えている。遺跡調査にダンジョン攻略……キミのもとへ舞い込む依頼は数知れまい。現在抱えている借金を完済して余りある報酬が見込めるぞ」

 借金、という極めて現実的な単語を引き合いに出されては、ヴァンも黙らざるを得ない。三年前の事変より、彼は冒険者としての関係・活動の一切を断ってきた。それはもちろん義手が身体に馴染むまでの、ヒトとしてのリハビリ期間だったこともあるのだが、何よりゼルの行方を追うために集中する目的のほうが強かった。

 しかしすでに時は三年。未だゼルは見つからず、それらしい人物を見たという話も聞かない。街の者たちは無残な姿で帰還した当時のヴァンを知るがゆえ、彼にとても良くしてくれるが、そんな厚意に甘え続けているのにも、個人的にそろそろ限界を感じていたところだ。

(……それに)ヴァンは思考する。

 どちらかといえば。

 ヴァンが表舞台に復帰して、彼の名が再び華々しく世界に広まるほうが、ゼルを捜索する上では効率がいいようにも、思う。


 ──あいつはきっと来る。

 だってあいつは──俺のことを──。


「先生」ヴァンは言った。「この政府直轄調査団へのエントリーは、まだできるのか?」

「もちろんだ。行ってみるかね?」

「ああ!」ぐっと書類を握り潰し、立ち上がったヴァンは目を輝かせて言った。「冒険の匂いだ! まだ見ぬ秘境と神秘の遺跡が、この俺を呼んでいるぜ!」

 冒険はひとまず完全な建前で、本音は当面の生活費の確保目的なわけだが──。オニキスはそんなふうに極めて冷静に思っていたのだが、せっかくヴァンに火がついているのだから余計な水はさすまい、と沈黙する。

(……それに)オニキスは考える。

 大きな街ではあるがこんなところに引きこもり、仇敵に変わり果てたかつての仲間を血眼になって追い続けているよりも、ヴァンには明るい光の下で、もっと精力的に、もっと活動的であってほしいと思うのだ。

 あの惨劇を忘れてほしいというのではない。いや、むしろこれから得るであろう素晴らしい功績と活動の中で、生乾きのままの傷がそっと癒えてくれるなら。その痛みを意識せず過ごせる時間が、わずかでも増えてくれるのならば──友は、そう願ってやまぬ。

 オニキスの作業が終わる頃、ヴァンはテーブルに伏せて眠っていた。事前に飲ませた睡眠薬の効力は強く、もう翌朝まで目覚めないだろう。神経への直接的な接続で強いショックを伴う義手の装着は翌日に見送って、医師は彼を軽く抱き上げると患者用の寝所へ運んでいく。

 目を落とせば、眠っているというよりも、意識を失っているといったほうが正しいヴァンの無機質な寝顔。呼吸は極めて安定しており、血圧、脈拍も申し分ない。

(──どうか)

 よい夢を、などと彼は言わない。

 夢を悪夢とし、恐怖の権化と捉える彼に、言えるはずがない。

(どうか、ヴァン。キミは今のままで……)

 友であり、医師でもあり、夢見ることを知らぬ鉄機の者であるオニキスは、ただ祈るのみだ。

 何もかもを失ったこの男が、せめてこれ以上壊れることのないように──。




                      To be contonued in「幻双竜の秘宝」(2016/08/22)