間近く夜明けに雨は上がりて 音のしない雨は、未だ聖龍の里を包んで煙らせている。エドガーが部屋に踏み込んだとき、サイガは窓に座っていた。 聖龍殿の中でも珍しいことに、この部屋の窓はガラスが張られており、はめ殺しになっている。本来は小物や明かりを置くための小さなスペースが、今はサイガの腰かけだ。カーテン程度の役割しか持たぬ紙障子はわずかだけ開いており、白い長襦袢に身を包んだサイガに必要最低限の視界を与えていた。 「……」 互いに言葉は無い。 というか、サイガはエドガーを一瞥もしなかった。 ただ空虚な表情で、遠い──里よりも遠いところを眺めている。 室内に明かりはなかった。敷かれた寝床も長らく整えられぬまま放置され、里の静けさも相俟ってまるで幽霊屋敷の一室だ。 様々な事態や応対を想定していたエドガーだったが、無反応は想像もしなかった。彼は小さく息を吐くと、足音を殺すでもなくずんずんと歩いていった。編み込まれた青い草が敷き詰められた足下の感触を、珍しく、そして心地好く感じながら。 近付いてもサイガの反応はない。けれどそんなこと、もうどうでもよかった。エドガーはやおら腕を伸ばすと、無遠慮にサイガの頭を引っ掴み、身を屈めて口付けをした。 ──ほんの、一瞬だ。 「よォ。……大変だったな」 エドガーが身を離して遅すぎる挨拶をしたとき、サイガの目はちゃんと彼を見ていた。唖然と、驚いていた。……かに見えた。 「……っ」 その表情が、見る間に歪む。堰を切ったように涙が溢れて、堪え切れずサイガはエドガーの胸に縋った。何も言わずエドガーが背に腕を回して抱きしめてやると、いよいよ彼は声を上げて泣き崩れた。 ああ、やっぱりな──。エドガーは小さく息を吐く。 彼は、ここへ来ることを決めたときから半ば確信していた。 サイガはエドガーが来るのを待っていたのだ。こうして自分の弱い姿を知っている者の来訪を、自分が吐露する感情のすべてを受け止め、抱きとめてくれる唯一の者が現れるのを。 エドガーは慰めの言葉など何も言わなかった。ただ何度も震えるサイガの肩や背をさすり、手触りの好い蒼い髪に指を通しては頭に頬を寄せてやって、自分が傍に在ることを報せ続けるだけだ。 いつからこうだったのだろう。どこからも、誰からも学んだり教わった記憶もないのに、エドガーはこうしてやることがサイガには一番良いのだと何となく理解している。いっそこのままサイガが泣き疲れて眠ってしまったって構わない。こいつが心に澱ませた暗い感情をすべて吐き切るまで、宥めるでも止めようとするでもなく、ただ受け止めてやれば良いのだと。 どのように解釈したのかは知れない。だが部屋の外にずっと控えていた聖龍殿の衛兵が、そっと立ち去っていく気配がした。 「……俺の名は、砕く牙、と書いてサイガと読む」 「へェ」 「悪を砕く龍の咢のように、曇りのない心を得るように──俺を名付けたライセンは、そう祝辞を述べたそうだ」 窓辺に腰を下ろしたエドガーと、その胸に身を預けたサイガは、今や揃って窓の外を眺めていた。 感情を発散しきり、サイガは先ほどよりも焦点のはっきりしない目をしている。だがエドガーは、それを悪い傾向だとはまったく思わなかった。溜め込んでいた感情をすべて吐き出してしまったのだから、心がカラになるのは当たり前のことなのだ。 「生まれたばかりの俺の顔を見て、父上は大層喜ばれたそうだ。母親にそっくりだ、と言われてな」 「はぁ? そういうもんか?」 エドガーはつい首を傾げた。 王族に生まれ、次代の王となる子供であれば、王である父親に似てこそではないか。エドガー自身、誰に会っても誰に聞いても父親似だと言われて止まず、またそうして持て囃されてきた。母親でさえも「あなたは陛下によく似て……」と言うのが口癖に近かったくらいだ。 そんなエドガーの心境を察したか、サイガは小さく笑った。 「聖龍の地にはな。母に似た男児は幸せになれる、という言い伝えがあるのだよ」 「なるほどな、そういうことか」 サイガの『今』がその伝承に従って本当に『幸福』であるかと問われればまた別の話になってしまうが、縁起担ぎが大好きな聖龍の者にとって、これほど喜ばしいことはなかったろう。先代聖龍王が、そして聖龍殿の奥に控えたジジィどもがどんなことを口走ったか、容易に想像がつくというものだ。 「それゆえか、俺の名に文字を当てるとき、父上は少々悩まれたという。『サイ』の字を、勇ましく『砕』くとするか、美しく『彩』るとするか……」 「……俺はどっちでもいいかな」 少し考え、エドガーは率直な感想を言った。 話題に興味がないのではない。どちらの名であっても、好ましいことに変わりないと思ったのだ。この聖龍の地のみならず、どこの地においてもサイガの強さと美しさは際立つものがある。聖龍の者らがどれほどこの者を慈しみ、大切に育ててきたかが窺える。 花は主の世話と愛情に応えるという。ならばサイガは聖龍に育まれた大輪の華だ。そういう意味では『彩』るほうがしっくり来る。だがそれでは、敵を前にした時のあの紫電の眼光を、七支刀を振るう力強さを、吼える声の勇猛さまでを示すことができない。 名とは難しいものだ──。そのときエドガーは、初めてそんなことを心底思いながら口を開いた。 「それにしたって、ガキの名前ひとつで大層な話だ。オレなんか、名前の由来なんざ教わったこともねえし聞いたこともねえぜ」 「そうであろうな。──だが、おまえの名は好い名だよ」目を伏せて笑ったサイガは、エドガーを見上げて言った。「俺は好きだ」 「ああ」エドガーは遠くを見たまま言った。「俺も、おまえの名前は嫌いじゃねえ」 「おいこら、そういうことは相手の目を見て言うものだぞ」 「痛って! 頭突きすんな、角が刺さンだろ!」 「よう言いおる。そこまで鋭利なものではないわ」 体勢を崩したエドガーの腕からひらりと畳に下り、サイガは腕組みなどしながら振り向いて言った。 「おまえこそ、このような時くらい爪の手入れはしっかりせい。さっきは何度も髪に引っかかって、かなわなんだぞ」 「あーっ、そういうこと言いやがるか!?」エドガーは思わず身を乗り出した。「ヒトがせっかく心配して来てやったってのに、テメーは昔っからそうやってヒトの厚意を無下にしやがって!」 「もともとこういう性分なのだ、致し方あるまい。それに、俺がこのように在るのはおまえの前だけだ。大目に見よ。……というか」 完全に開き直っていたサイガは、不意に顎に手をかけ、真面目な顔をしてエドガーの顔を観察した。 「おまえ、『厚意』などという難しい言葉をどこで覚えてきた?」 「いい加減にしねェと絞め殺すぞテメェ!?」 「ぶ、っはははは!」サイガは手を叩いて笑った。「ああいやいや、さすがに今のは俺が悪かったな。詫びよう」 解りゃいいんだよ、と舌打ち交じりに頭を掻いたエドガーは、ふと自分の手に目を落とした。言われてみれば確かに爪に傷みがある。このところ戦だ遠征だと予定が立て込んでいて、普段から気にしていないことも相俟って身なりに気を配っている余裕がなかったのは事実だ。 抱きしめてやるつもりで傷付けてしまっては元も子もない。帰ったらセツナにでも、手入れのイロハを教わろうか。目を丸くされた上に妙な病を疑われるかもしれないが。 そうだ、セツナと言やあ──。エドガーはふと、どうでもいい話を思い出した。 「サイガ。おまえンとこの、あの混血の女さ」 「ああ。絶影……クオンか?」 「あの女が獣牙と聖龍の混血だって、おまえ、最初から知ってたのか?」 「俺が王となった日、あやつは自ら正体を明かしたよ。獣牙に弟がおることもな。まあもっとも、ヤツが純粋な聖龍の者ではないことは、何となく判っておったが」 「あー、やっぱりか」エドガーは頬杖をついた。「だからおまえ、獣牙にそんな偏見持って無かったんだな」 「何を言う。俺はそもそも、誰にも偏見など持っておらん。我ら四部族は元来、調和のもとに人間を守護することこそが本分。同族も異種族も関係なかろうよ」 「……」 はいスイマセン、とうっかり小声で謝ってしまい、エドガーは自分の器の小ささを改めて痛感した。いや、器というよりは視野であろうか。……そう、スケールが違う。 「だから」と、サイガは改めて言った。「俺がおまえを好いておるのは、おまえだからだよ」 エドガーはそのとき、色んな意味で耳を疑った。 いや──。そしてちょっと考え直した。こいつのことだ、俺がそれっぽい反応するのを見たら、いつものように笑い出すに決まってやがる──。もうそのテには騙されねェぞとばかりに呆れ半分に顔を上げたエドガーは、たまらずギクリとしてしまった。 サイガは笑っていた。……けれど、泣いてもいた。エドガーが驚いていると、彼は申し訳なさそうに顔を逸らし、袖口で目元を少し拭う。 「いや、すまぬ」取り繕って笑おうとする、その声が震えていた。「まだ、悪い気が抜けきらぬようだな」 「おまえ──」 「大丈夫か、などと問うでないぞ」俯きながらサイガは言った。「そう問われれば、俺は大丈夫だと答えねばならぬ。……おまえに、嘘はつきとうない」 大丈夫なわけがない。未遂で済んだとはいえ、親殺しの傷がこんな簡単に癒えてたまるものか。ここにいるのがエドガーだからこそ、サイガはこうして心の内を口にしている。だが、もしここに居合わせたのが聖龍の誰かであったなら、サイガはこうして話し相手になどせず、適当な嘘を言って追い払っただろう。 ……いや。むしろ何も交わしすらしまい。エドガーがはじめにここへ入ったときの、あの空虚な無反応。あれがすべてを物語っているではないか。誰が来ても話さず、誰が近付いても触れず、ただ自分の殻に閉じ篭って、ずっとそうやって彼は待っていたのだ。 エドガーが来るのを。……呼んでもいないのに。 それは何もサイガが誰も信じていないからではないし、誰にも心を開いていないからでは、もっとない。 彼は単に知らないのだ。自分自身の曝し方を。 他者との、親しい接し方を。 「エドガー」サイガは両手を伸ばした。「来ておくれ、もっと傍へ」 「ああ……」 求められるままにエドガーも両腕を伸ばし、ふたりは改めて身を繋ぎ合った。陽の当たらぬ暗い部屋で、目を閉じ、互いの鼓動と体温を確かめ合う。 エドガーと向き合った時にだけ、サイガは気兼ねなく自分を曝け出せる。本音を言える。けれどそれさえまだ拙いことにエドガーは気付いた。サイガがただ一言会いたいといえば、この密会はすぐにでも成立した。なのに彼はそれをしなかった。 できなかったのだ。 サイガは時に傲慢に見え、時に横柄にも見える。けれど彼はそうした態度の下に、一番悪い癖を身につけてしまっている。 所詮はヒトの子に過ぎぬ『自分』を閉じ込め押し殺し、『国』として振る舞う癖を。 『個』ではなく、『全』として在り続ける観念を。 (そうか──) エドガーは不意に理解した。 サイガは今、異なるふたつの自分の間で揺れている。平然と話していたかと思えば唐突に涙を止められなくなる、まるで人格が変わったようにころころと立ち替わる感情こそがその証明だ。 心持ちが不安定だから、傷が癒え切らない。出した傍から澱み溜まる、膿のような感情をうまく流すことができない。 ならばどうすればいいか? 固定してしまえばいいのだ。サイガの心持ちを、現状に一番好くない『全』から、もっとも小さく本人にとっても扱いやすい『個』へと。そのためのトリガーを、自分は持っているのだから──。 (…………) エドガーは腹を決めた。 彼はサイガの身を押すようにしてわずかに身を離すと、その頭を支え、今一度、唇を交わす。 サイガは抵抗しなかった。エドガーが触れようと近付いたとき、受け入れるように目を閉じた。自ら身を伸ばして、相手に応えようとさえした。 はじめは柔らかく触れ合うだけで。けれど次第に甘く噛み、ゆるやかになぞり、いつしか深く繋がっていく。 その行為の持つ意味が、変わってゆく。 ふたりは倒れ込むように寝床へ落ちた。サイガは己の上にのしかかるエドガーの体重を感じているはずだ。怖くはないか、気分は悪くないか──何もかもを押し隠すように、白い布地の上に蒼い髪を広げ、サイガは目を閉じたままだった。 「サイガ──」 「……何も言うでないよ。言葉など要らぬ」寝言のようにサイガは言った。「つまらぬ気遣いなど、もう飽いたわ」 そうして静かに目を開くと、その異様な存在感を持つあかい瞳でエドガーを見つめた。 こいつはなんと蠱惑的な生き物だろう。言葉の意味を理解するより早く、かっと身体が熱くなる。普段誰にもロクにしたことのなかった不器用な遠慮が、急に熱を帯びた男の欲望にすり替わる。 わかったと答える代わり、エドガーは身を沈めた。頭を押し退けるようにして、あらわにした白く細い──喰らいつき易そうな──首筋へと。 自分の目的が『そちら』にあるのだと宣じるように。 サイガの手には、ファフニールを討ち取った最後の一撃の感触が今も克明に残っている。 あのとき、腕が飛んだ。 深く、深く肉を斬り裂いた。 恐らく……いや、間違いなく内臓に到達した確かな手ごたえ。 やった──。彼はそのとき、紛れもない歓喜交じりの達成感を覚えていた。忌まわしき敵を討ち、この地より闇を払うことができた。自分をここまで支えてくれた馴染みの子らに、援護の者らに深く感謝さえした。 けれど。 けれど。 ああ──。堪え切れず閉じたサイガのまぶたの隙間から、枯れることを忘れた涙が溢れて伝い落ちていく。 あらゆる歓びが、希望が、その刹那に攫われた。 敵は、敵ではなかった。 ……いや。ああして戦わねば、サイガ自身はおろか、軍に志願したすべての者が無残に死したであろう。ならば敵と呼ばずして何としよう。戦わずして他に道はあったのか──言い訳を考えるようにサイガは葛藤を繰り返してきた。 ──そう。すべては言い訳なのだ。全力をもって父を殺すところであった、知らずながらも大罪に足を突っ込んだ自分への。 誰に責められたわけでもないのに、彼は誰よりも深く激しく自分を責め立ててきた。他の者らが慰めるほど、言い繕おうとするほどに、その言葉に身を任せることが重大な逃避である気がして、拒絶することしかできなかった。 障子の外で、ライセンは報せた。父王が命を取り留めたことを。時間は必要になるが、そして以前ほどの力はもうないが、いづれ人前に出ることもできるようになると。 ミヤビは言った。サイガがしたことは間違いではないと。そうする他に、どうすることもできなかったのだと。 テッシンは言った。サイガは立派だったと。誰にもできないことをやり遂げたのだと。 (だまれ) サイガは頭を抱え、心の内で幾度も叫び声を上げた。 黙れ、黙れ黙れ。俺はそんな言葉がほしいのではない。こんなときに称賛など何になろう。 俺はただ。 ただ──。 「サイガ……」 わずかに身を起こしたエドガーが呼ぶ。感情の波に押しやられ、いよいよ嗚咽を漏らすサイガを。 「よい……」サイガは言った。「俺に構うな」 本心だった。 先の戦いで彼の精神は重度に疲弊し、言葉を放つことにさえ余計な気力を使う。それが他者の気遣いに対する返礼であったなら、尚のことだ。 皆に悪いことをしたと思っている。 せっかく自分に気を遣って、慰めようとしてくれた者たちに申し訳なく思っている。 だが、まだ、心がついて来ないのだ。 今にも死にかかった心は、回復するための休息を欲している。 言葉は要らない。態度も見せなくていい。 ただ。 ただ、傍に居てほしいだけなのだ──。 「わかってるよ」 答えたエドガーの手がぬっと伸び、敷物の上に投げ出されたサイガの手に重なる。 そうして身体と同じように、ぐっと深く繋ぎ合った。 生まれて初めて交わした身体の熱。そこにまったく苦痛がないと言えば嘘になる。 繋がり方も、受け入れ方も互いに知らなかったけれど、手探りで距離を詰め、呼吸を合わせるうち、次第に背筋が逆立つほどの心地好さが疾るようになっていった。 これはなんと便利な手段か、とサイガは虚ろに思う。 こうして身体を重ねるだけで、どんな言葉よりもはるかに早く、確実に、そして簡単にエドガーの想いが伝わってくる。息遣いや動作の緩急、果ては気配でまで、サイガは相手の有様をすべて感じ取ることができたのだ。 なるほどこれなら言葉は要らない。むしろ言葉を混ぜようなど無粋というものだ。たとえ愛の囁きであろうとも、それは途端に嘘くさく、薄っぺらなものに変わってしまうであろう。 与え、与えられるこの悦楽を共に享受してこそ、ふたりは同じ世界を見ることができる。長い時間をいたずらに過ごすだけでは……そして、長い人生を共に歩むだけでは絶対に得られないものがここにあるのだ。 込み上げる愛しさの前に、苦痛も悲しみも薄らいでいく。 父は死んではいない──。サイガはふと思い出す。それどころか彼の父は倒れる間際、サイガの最後を一撃をして「見事」と称賛までしたではないか。 そう、これが答えだった。 サイガは不意に気付いた。 悲しむ必要も、まして苦しむ必要もなかったことを。相手はすでに結果に納得している。そしてもう間もなく、会う機会は巡ってくる。ならばサイガにできるのは、決して戻らぬ過ぎた時を悔やむのでなく、今に堂々と向き合うことだけだ。 なんだ──。サイガは悪夢から覚めたように思った。俺は、こんなにも簡単なことを見逃していたのか──。 「エドガー……」 サイガが呼んだ。 獣の勘を持つエドガーでなくとも、こいつはもう大丈夫だ、と直感で察せられる。その目にはもう、夢うつつを彷徨い歩いていた先ほどまでの澱みはない。 ただ純粋な、熱に浮かされた想いがあるだけだ。 「すまぬ……エドガー。手間をかけた……」 「そんなこと、気にすんな」 下から伸びてくるサイガの手を受け入れながら、エドガーは求められるまま彼の身を強く、強くかき抱く。 そうしてどちらが求めるでもなく、彼らは唇を交わした。 愛してる──。その想いを、包み確かめるように。 昇り詰めようとする律動のさなか、エドガーのささくれた爪が幾度も背や肩を掠めるのをサイガは咎めなかった。 はじめから、そんなこと気にもしていなかった。 不器用でもよい──。サイガは高まる呼吸の中で切に思った。 傷になろうとも構わぬ。怖いもの知らずのその腕で、おまえが想いのまま俺を愛してくれるなら──。 エドガーが追い上げ、サイガが引き上げて、ふたりの熱がついに弾ける。 そのとき彼らが感じたのは、この世の何より確かな唯一のもの。互いの存在だけだった。 里を包む雨は未だ止まず、夜にかけて強まっていく。 それは何もかもを洗い流すようで、また、何もかもを覆い隠すようでもあった。 人々の心は、未だそんな、深く暗い水底に在る。 しかし彼らは知っている。 闇は深いほどに、もう間もなく終わるのだということを。 雨が夜半に通り過ぎ、やがて朝が訪れたとき、彼らはそっと寝床を抜け、閉じ切った雨戸を開いて外へ歩み出るだろう。 自分がそこに立っていることを確かめるために。 そこに広がる青空を、清々しく見上げるために──。 終幕(2016/06/08) |