神々の



『サイガ──』

 少女の声に意識を引き寄せられ、彼は揺らめく光の中で目を開く。

 近いところで自分を覗き込んでいる娘の姿が霞む。彼女は泣いているようだった。

『あなたの記憶も魂の力も、すべてお返しします。これで許してくれなんて言えないけれど、もう、私にはこれくらいしかできないの』

「あ……なた、は……?」

 サイガは問おうとしたが、折れた胸の痛みで声が掠れてうまく言葉にならない。

『ひどいことばかりしてしまって、ごめんなさい』

 少女は腕を伸ばし、サイガを抱きしめた。ふわりと鼻先を掠めたその匂いは、サイガには春の陽射しのように感じられた。

『あなたからは本当にたくさんのものを奪ってきたわ。でも……最期にあとひとつだけ、……私に、手向けを許してください』

 そう言って、少女は静かに顔を寄せるとサイガに口付けをした。

 ふたいろの長い髪が、幼い腕が、身体が、細かな光の粒となって薄れ、消えていく。

 光と一体になる心地好さに誘われるまま目を閉じる彼の耳に、少女の祈りが響いた。


『さようなら、愛しいあなた。どうか、──お元気で』


 調和神の祝福を受けた七人からの猛攻は凄絶を極めた。

 瞬く間に邪神はすべての腕を吹き飛ばされ、翼をもがれ、脚と尾を失い、巨躯までもを粉微塵に打ち砕かれた。

 バランシールから長い時をかけてやっと奪い取った神力など、何の足しにもなりはしない。今や邪神の体躯はヒトとそう変わりなく、動物か魚のように跳ねまわるだけで精一杯だ。

 おのれ、おのれ、おのれ、口惜しい──。

 それだけの力すらもはや無いが、奴らを生きながらにして引き裂き、喰らい尽してもまだ足りぬほどの口惜しさが邪神の心を支配してやまない。いったい自分はどこで間違ってしまったのか。もし時が戻るのならば、こいつは何よりも優先して彼らを八つ裂きにして殺していたであろう。

 こうなったら。こうなったら──。

 身をくねらせ、光の雨を掻い潜って邪神は疾った。口を開き、ぎらりと鋭い牙を剥いて、征く手に立ち尽くした八人目の背を捉える。

 貴様だけでも、道連れにしてくれる──!
 朱の組紐に結われた、蒼い髪がサワリと揺れる。邪神に背を向けて棒立ちになっていたその者は、未だ振り向かずと思われたところでふと顔を上げた。

「──世界の調和を乱す者は許さない!」

 はっきりと宣じる言葉。

 すでにその延髄を狙って跳躍していた邪神の目は、振り向く彼の動きを鮮明なスローモーションで捉えていた。

「おまえのことだ、邪神帝よ!!」腹から張るサイガの声が凛と響く。「無に帰すがいい!!」

 宙を薙いだ腕の先で握られた拳の中に、馴染みの剣が出現する。

 快晴の天空とまったく同じ、柄から切っ先にかけて透き通るグラデーションを宿した美しき七支刀の刃が風を生み、雷をまとって唸る。

 超神羅・聖龍神滅覇──! 荒れ狂う暴風に等しき叫びが解放の言葉を紡ぎ、落雷の閃光が邪神の牙を薙ぎ払っていた。

(…そ、そんな…そんな馬鹿なッ!!)

 最後に残った小さな武器までも失って、弾き飛ばされた邪神がボトリと地に転がる。

 致命傷だった。誰が手を下すまでもなく、放っておけばこのままこいつは消滅しただろう。

 ──だが、そうして邪神の死を自然に任せることをよしとしない者がそこへ歩み寄っていた。今や小魚ほどにも成り果て、辛うじて息をしているだけの弱り切った魔物は、視界にかかる影に気付いて視線を上げる。

「おまえ……」邪神を見下ろし、尽きることも果てることも忘れた激しい感情を滲ませたリュウガが言った。「覚悟できてんだろうなあ……?」

(ヒ……ッ!?)

 たじろぐどころか、邪神は本能的な戦慄からぴょんと跳ね上がっていた。

 駄目だ、こいつは何も考えていない──。今から死にゆく闇が震える。

 魔の調伏だの邪の必滅だの、神としての責務や使命などといったご立派なことは何一つとして意識していない。今のリュウガから溢れ滲むものはただひとつ──自分のテリトリーを侵された者の、憎悪と称して差し支えない、動物的なまでの怒りだけだ。

「……あの。父上」抜き身のアルマデルをぶら下げたままのアークが、傍らに滞空するメビウスを仰いで言った。「どうします? あれ」

「放っておけ」

 肩を竦め、さしたる興味も無さそうにメビウスは言った。

 本当ならばあの邪神には不死の術法を施し、今後の実験体として採取しておきたいところだったのだが、ここまで来たらそんな個人的趣向はリュウガに申し訳ない。

 誰も知らん顔をして遠くを見ている中で、生まれて初めてこの世に生を受けたこと自体を後悔した邪神に、無慈悲を通り越した渾身の鉄槌が打ち落とされた。



    エピローグ

 コア・キューブの調整によってもとの景観を取り戻した天界に、ぱらぱらと神々が戻り始めている。

 調和神バランシールは世を去った。けれど、その力を受けて新たに生まれ出でた八人の神々は、最高神の居城となる神殿で向かい合っている……はず、だったのだが。

「神になったからといって、私はこんな退屈なところに引きこもるのはゴメンだ」あっさりと言い切ったのはメビウスだった。「思いもよらぬ『永遠』を手に入れてしまったが、仕方ない。こうなったら色んな世界を回ってみるつもりだよ」

 こいつがこんなことを言い出したものだから、顔を見合わせた他の連中が我も我もと手を挙げたのだ。

 最終的に場に残ったのは、サイガと、この雪崩現象のきっかけを作った張本人のメビウスだけだった。要するに誰も、新たな最高神の一柱としてこの天界に留まることをよしとしなかったのだ。彼らは自分の生まれ故郷やその管理を優先し、中には大切な人を思うあまり、せっかく授かった力を捨てていく者までいた。

 今は十天闘神を指揮して他の神々の安否を尋ねて回っているリュウガの意志だけが未だ不明だが、この流れでは彼も何かしらの理想を言い出しかねない。

 神の意向を、その力を引き継いだ責任の放棄──それは、傍目に見れば史上類稀に見る暴挙であった。

 バランシールがこの光景を見たら泣くかもしれない。

 ──いや、もしかしたら。

「やれやれ……困った奴らだなあ」

 きっと、笑って見送ったのだろう。このサイガのように。

「サイガ」メビウスは言った。「おまえはどうする気だ?」

「俺はここに残るよ」サイガもまた、あっさりと言った。「邪神の脅威は去ったが、いきなりすべてが元通りになるわけではあるまい」

「土地の浄化は終わったんだ、あとは成るようになるだろう?」

「そうかもしれん。だが、それではバランシール様が浮かばれまいよ。どうせ帰る地も無いのだ、あのかたのようにはいかぬだろうが、俺は俺なりにできることをしようと思うておる」

「おまえが『できることを』なんて言い出したら」面白そうに笑ったメビウスが肩を竦めて言った。「もうこの世界は永劫に安泰だな」

「いやいや、買い被りだよそれは」サイガは苦笑いした。

 ばたん! 慌ただしい音を立てて、彼らがいる主神の間の大扉が開いた。

「サイガ様……っ!!」

 感動のあまり声を震わせ、駆け込んできたのはクオンだった。

「サイガ様っ!」抱き留める主にすがって泣きじゃくり、クオンは言った。「おかえりなさいませ、サイガ様っ」

「苦労をかけたな、クオン……俺の記憶がないばかりに、おまえには……」

「そんな、勿体ない御言葉にございますっ」

 幼い妹でも慰めるように頭を撫でてやりながら、顔を上げたサイガはクオンに続いて広間へ入ってきていた者たちに気付く。

 サイガと同じく過去の記憶を取り戻したポラリスとシリウス、……それに、ライセンとシオンだ。

「皆……」

 あまりに懐かしすぎる顔ぶれを目にしたサイガの表情がほころび、深紅の瞳に涙がにじむ。ことにライセンとシオンは、別世界へ旅立つメビウスについていく意向を示している。これが今生の別れになるかもしれない。

 いや……そうでもないか──。メビウスは考える。

 自分たちは神と成り、永遠となった。ならばこれからの永い時間、ふと知り合いの顔を懐かしく思い出す日は必ず来る。この世界は自分の故郷だ。いつか……いつか遠い未来、ひょっこりと里帰りよろしく戻ってくることもあるだろう。

 それに──。蛇は仲間らに囲まれたサイガの姿を見つめ、思った。いつでもこいつらが待っていてくれるのだと思えば、たまに帰ってくるのも悪くはない──。

(……まったく、それにしても)

 ふと、開かれたままの大扉の先を見やり、彼は溜息を吐いた。

 未だ戻らぬリュウガは、どこで何をしているのか。最後に残ったそのひとつの懸念がメビウスを呆れさせている。

 いくら天界広しといえど、十天闘神全員で回るのならばそれほど時間はかからないはずだ。そもそもマステリオンを駆るリュウガは、これまでひとりでも数刻とかけず天界全域の警邏をこなしてきたと聞く。本来ならばこの広間でサイガの隣に在って当然であろうに、まさかこの期に及んで『臆病風』にでも吹かれたのではあるまいな──。

 いっそ様子を見に行こうかと思ったとき、不意に廊下に覚えのある声と気配が現れる。

 ごちゃごちゃと団子のようになってやってきたのは、予想に外れぬ十天闘神だ。

「いや、そんな、いいって」リュウガの焦った声がする。「俺は──」

「今じゃなくていつ言うんですかっ」ショウの声がした。

「いいからほら、行きなさいっ!」

 シズクの声と共に、闘神たちの輪から、リュウガが大広間に突き出された。

 数歩のたたらを踏んで顔を上げた彼が気付いてみると、周囲の者らはすでに遠巻きになって場を静観している。ひとり事態を理解しきれずぽかんと出迎えるサイガの隣に居たメビウスまでもが、何を察したか一歩退いてしまった。

「あ……」

 サイガと目が合った刹那、何事か言いかけたリュウガの声が途切れる。

 思えば、このリュウガとサイガが面と向かったのは、本当の意味ではこれが初めてのことであった。

 リュウガにとってのサイガは、いつまでも幻影のままで。

 サイガにとってのリュウガは、いつまでも夢の中の存在で。

 ようやく逢えたと思えばサイガに記憶はなく、おまけにほどなく始まった大戦に巻き込まれて、まともに話す機会すらろくにないままここまできたのだ。

 本当に短い期間だったのに、ふたりの間には様々な感情の行き交いがあった。そしてリュウガは、サイガに芽生えた想いが懐かしさに惹きつけられた一介の憧憬にすぎないことを知りながら彼を抱きさえした。

 後ろめたさは当たり前、咎めは予想の範囲内。せめてそれが、自分を突き放すほどの激しい叱咤でないことを祈るより他にない。

「サイガ……」

 返る言葉に何を求めるのか、リュウガはぽつりと相手を呼ぶ。

 本当は愛しくて愛しくて堪らなくて、何度呼ぼうが足りないその名を。

「──リュウガ」

 たった一言、返った呼びかけを聞いたリュウガの表情が変わった。

 同時に、背後で様子を見ていた闘神ら──中でも五光神らが顔を見合わせ笑みを交わし、メビウスもほっと肩の力を抜く。

 それはここしばらくですっかり聞き慣れてしまった、敬愛を含む調子ではなかった。そしてリュウガ自身が何より恐れた、怒りも厳格さも感じさせはしなかった。

 懐かしさに胸が軋むほど、在りし日と変わらぬ穏やかなものであったのだ。

「大きくなったな……リュウガ」

「サイガ……ッ!」

 堪え切れず踏み出したリュウガをサイガが受け止める形で、ふたりは抱きしめ合った。

 思わずアッと声を上げそうになったクオンをシオンが引き留め、そんなふたりを幼い日からよく知るライセンが目を伏せ、思い出に様々な想いを馳せる。

「さあリュウガよ、言うておくれ」誰にも聞こえぬように、サイガは求めた。「これ以上を、俺に言わせるでないぞ」

 ──わかっている。

 サイガに許されたときから……いや、もっともっと以前から、とっくに彼の心は決まっていたのだから。

「一緒になろう、サイガ」リュウガは言った。「愛してる……あなたを愛してる」

「……ああ」サイガは頷いた。「これからはずっと一緒だ、リュウガ」

 光と交わり記憶を取り戻したとき、サイガは自分がいかにリュウガに愛されていたかを思い知った。

 この大戦において、リュウガはサイガの征く道を遮るのでなく、信ずる主神への疑惑を曝け出すのでもなく、ただひたむきに彼の意志を守ってきた。自らの神徳を授け、クオンの記憶を解放して陰の守備を固め、彼に如何なる危害も及ばぬように計らってきた。

 いつどんな事故でサイガが死したかもしれぬ戦火の中だ、これほどの策を巡らせてもおそらくリュウガは気が気ではなかっただろう。それでも何を語るでなくサイガの技量を信じ、かつて仲間であった者らを信じ抜いたその心中は、如何ばかりであったか──。

 熱く、切なく抱かれた夜の記憶に重ねるほど、彼に応えず終わるなどサイガには考えられなかった。たとえかりそめと知っていようとも、愛しい者の想いが自分に向くならそれをかき抱くは男の有様。そのことを叱責しようなど論外だ。

 すまぬな──。彼は目を閉じ、遠い過去を思う。俺は、新たな道を征くよ──。

「新生されし二柱の最高神! 御名、神羅光龍神リュウガ、並びに神羅聖龍神サイガ!」

 低く轟く声に驚いてふたりが身を離してみれば、そこには残る十天闘神らが膝をつき、彼らに敬意を示していた。

 その先頭にひざまずいた五神将筆頭・夜叉王ハーディンは言った。

「我ら十天闘神は、往年の調和神バランシール様に誓いしものと同等──否、其れ以上の忠誠をもって、あなたがたにお仕えする!! 二柱の調和により、新たな世に永久の安寧がもたらされんことを、我ら一同、願い奉らん!!」

 めでたい席ではあるものの、堅苦しいことと言ったらこの上ない。サイガがたまらず苦笑いする一方で、ついさっきまで同僚だった連中から一瞬にして上司扱いされてしまったリュウガは言葉を失って唖然としてしまった。無理もないことだが。

 まあ、もっとも──。笑い合う者らから一歩離れたところで、メビウスはひとり笑む。バランシールの力を授からなかったとしても、サイガを射止めていたのは事実なのだから、リュウガはどちらにしてもこの扱いになっていたのは変わりないがな──。

「師匠」と、傍へやってきたライセンが声をかける。「外の民や神々は、もう完全に祭事の構えでいるようです。つかまれば出立が遅れそうですが、いかがされますか」

「構わんさ」メビウスは言った。「時間は無限だ、たまには祭りに付き合ってやるのも悪くない」

「何事も即時実行の師匠が、お珍しいことで」

「なに。ほんのすこし懐かしい気持ちに浸っていようと思っただけだ」

 そう言って向ける視線の先には、リュウガがいて、五光神がいて、五神将がいる。

 もし彼らさえ許すのならば、まだもう少しだけ、彼らと同じ温かな感情の中に居たい──普段の自分では考えられない思考が平然と紡げてしまうのは、此度の戦いを経て彼らに感化されてしまったせいかもしれない。

 思えばメビウスには、常の闇を生き、悪行を成すも厭わず、己の求める理知を追及し続けた記憶しかなく、本人も自分にはそれが合うと思っている。今でこそライセンによって正しく導かれているとはいえ、もはやこれは魂の資質といえよう。

 そんな自分が眩しい空を仰ぎ見て、仲間を持つのも悪くないと考えている。

 他者の想いが持つ影響力。それらに揺り動かされ変容する心の作用──世の理のほとんどを知り尽くした彼に、自己心境変化への疑問からそういった内面的なものへの興味が生まれた。

 ヒトの心を解き明かすとなれば莫大な時間は必要になるだろうが、永遠である彼には大きな問題ではない。手始めに、しばらくここの連中を観察してみようか──。

「終わりよければすべてよし、ですね」と、ライセンが呟いて。

「うん?」それを聞き付けたメビウスが、信じられないとばかりに振り向いた。「ライセン。おまえまさか、これが終わりなどと思ってはいないだろうな?」

「え?」師の言葉を理解しきれず、ライセンがきょとんとする。

「始まりだぞ」相手に人さし指を突きつけ、当たり前のことのようにメビウスは言った。「私たちはこれから旅立つのだからな」

「……はい、師匠」一瞬こそ唖然としてしまったものの、……やがて目を伏せ、零れる笑みを堪え切れずライセンは頷いた。まったく、このひとにはかなわない──。「おっしゃるとおりです」

 そろそろ神殿の外が騒がしい。大戦終結の報を聞き付けた神や民が、大勢駆けつけてきているようだ。御出座しを求められ、闘神らを引き連れて広間を出ていくリュウガとサイガに続こうとしたシオンが、残るふたりを振り向いた。

「ライセン様、お早く!」

「ああ」弟子に応えたライセンは、メビウスを振り向いた。「参りましょう、師匠」

 自分に差し伸べられた手に目を落とし、メビウスは一瞬、何も言わず何もせず沈黙してしまった。

 迷ったというのでもないし、何かを考えたというのでもない。

 ただどういうわけか、このときが……この瞬間が、どうしようもなく嬉しくて。

「……ああ」

 手に手を重ねて答えるメビウスの笑みに、ライセンは過去の記憶を垣間見た。

 縋るものを見つけて安堵し、全幅の信頼を寄せて見せた、あの日の無邪気な笑顔を。



 何者にも何事にも、終わりなど存在しない。あるのはただ、これからもずっと続いていくであろう無限の時間と果てなき道のみ。

 そう。未来は常に、「ここ」から始まるのだ。




                         第十章「天地神明の章」 FIN(2016/07/15)