光龍示録



   1

 ここには、星空しかない。

 天界の最上階にある『水鏡の庭』は、床一面が薄く水をはったような構造を持ち、あらゆるものの真実の姿を映し出すとされている。

 太陽よりもはるかに高い場所にあるため、ここへその光が届くことはなく、頭上には常に満天の星が煌めく。それらを鮮明に映し取って輝く水鏡は壮大に美しく、そこに立つ者から天地の境界なる意識を薄れさせるほどだ。

 リュウガは、そんな天界の中でも高位の神にしか立ち入ることを許されない場所で独り、空を見上げて立っている。

 ……否、彼は待っていた。愛する人がやってくるのを。


 メビウスを中心とした一行が、天界への進軍を開始した──。

 リュウガがその報せを聞いたのは、開戦からすでに数日を経過した夜のことだ。

 バランシールの神殿ではすでに毎夜の宴席が中止されており、他の神々も『安全のため』と銘打って各自の神殿へ戻されていた。

 代わって天界を闊歩するようになったのは軍属の者たち。天聖騎士団らは巨大な甲冑そのものの武骨な姿で、抜き身の武器を手に『巡回』と称して楽園をうろつく。シズクやテラスが日々大切にしていた美しい花々は踏み荒らされ、彼女らは深い落胆の息を吐いていた。

 そういえば、このところサイガの姿を見ない──嫌な予感交じりにそのことに気付いたリュウガが遣いを出して調べさせてみれば何のことはない。サイガはバランシールの命令により、天聖騎士団を率いてメビウスらの迎撃に向かったことを知らされた。

 メビウス一行の中には、かつての師であるライセンやシオンがいる。彼らが在る限り、天聖騎士団が壊滅となってもサイガだけはその攻撃を免れるであろう──半ば確信に近くそう踏んではいるものの、やはり不安も危惧も拭いきることはできない。

 そうしたリュウガの危機感まじりの『目論見』どおり騎士団が敗退し、天界軍は第一次迎撃戦より撤退を余儀なくされ、バランシールは次なる戦力を駆り出して差し向けようと計画する。

 そんなさなかリュウガは、天界へサイガが戻ったという報を聞き付けるや否や、彼を召致したのだった。


 この水鏡の庭へと。


 夜空を見るのは嫌いではなかった。遥かな過去……まだずっと幼かった頃、サイガと並んで星を見たことを思い出すから。

 あのとき、些細なことに苛立って、仲間と仲違いしそうになった自分を彼は諫めてくれた。

 その時の横顔を、優しい声色を思い返すだけで胸が痺れる。

 ──愛しい。リュウガはその想いをとっくに認識していた。

 これまでは大切な思い出として、過去の記憶として胸の内にしまってあった。だから、かつてその想いを告げられなかったことへの、そしてサイガが自分のものにならなかったことへの諦めもついていた。

 けれどバランシールの神殿で再びサイガの姿を見たとき……そして、その魂に一切の穢れがないことを知ったとき、彼はもう、自分の想いを止められなくなっていることに気付いてしまった。

 早く。早く姿を見たい。顔を見たい。声を聞きたい──空を仰ぐ凪いだ表情からは誰も窺い知れぬであろう逸る心を抑えきれないリュウガの耳に、無音の銀河からコツンと小さな足音が響いた。

 は、と息をのんで視線を落とす。

 水鏡の果てに、この庭へ続く長い回廊を上がってくる人影が見えた。

 心地好い夜風に蒼く長い髪が揺れる。サイガだ。リュウガは今すぐにも駆け寄りたい衝動を堪え、彼が自分のもとまでやってくるのを待った。

 これが、神前に参ずる者と、それを迎える神との間にある礼儀であることを……そして、その手順を省いてしまうのがサイガの意に反することを知っていたから。

「光龍神リュウガ様が神徳を賜りし龍族の長──」サイガは膝をつき、頭を垂れて言った。「聖龍王サイガ、参りました」

 あまりに作法通りのその態度と言葉には、やはりかつての親しみなど微塵もない。

 過去の記憶を持たぬサイガのこうした言動には慣れたつもりでいたが、やはりこうして逢瀬の時を待ち侘びた上でのこととなると感じる消沈の度合いは半端ではなかった。

「……メビウス一行の迎撃に出ていたと聞いたよ」リュウガは抑えた調子で言った。「ご苦労だった。よく、無事で戻って来てくれたな」

「──いいえ」

 サイガは顔を上げないまま言った。その調子はどう聞いても、自分の守護神からのありがたい御言葉を頂戴する態度ではない。むしろ自分に相応しくない労いを、謹んで返上するそれだ。

「任された天聖騎士団を失い、逃げ戻ったに過ぎぬ私には、そのような御言葉を拝する資格はありませぬ」

「……」

「あまつさえ、反逆者のひとりも討ち取ることすらできなかったのです。失態を重ねた私は、本来であればこうして御前に参ずることすら許されぬ身にございます。その御言葉が慈悲であるならば、どうかそれは傷付き倒れた騎士団の者らに……」

「そんなことはないよ、サイガ」

 声をかけられたサイガがぴたりと言葉を切る。けれど決して顔を上げないのは、合わせる顔がないからだろう。

 当然の結果だ、とリュウガは思っていた。

 サイガは過去の記憶を持たぬ故に、魂の力を完全に解放できていないし、することもできない。バランシールが何故このような状態のサイガに騎士団を任せたのかといえば、メビウスの腹心であるライセンやシオンを封じる手段以外のなにものでもない。

  要は手駒に過ぎないのだ。だから、仮に彼が戦地で死したところで、バランシールからすれば痛くも痒くもない。けれど、サイガはこうして五体満足で戻ってきた。戦地で命をかけた戦いをしながらも、かつて仲間であった者らが彼に深い情をかけ、あるいは気取られず援護をし、傷付けぬよう慎重に相対した結果なのだ。

 敗退も当然なら、この無傷の帰還もまた当然である。それらを知る由もなく、ひとえに己の至らなさとするサイガの意識はお門違いもいいところだ。

 無事に戻って来てくれた。それだけで充分すぎるほどなのに。

「顔を上げてくれ」跪くサイガの前に膝を折り、リュウガは言った。「誰もあなたを咎めはしない」

「ですが──」

「罰なら、俺が与えよう」

 そう言ったリュウガの手に、空間を渡って光の刃が召喚される。

 夜闇の中でひときわ輝くその光が視界に入ったか、サイガの気配が緊張を帯びた。

 けれど、それでも彼は何も言わず、また顔を上げることもしなかった。己の失態を己の守護神の手で断罪されるならば文句はなく、むしろ本望とさえ思っているかもしれない。

 リュウガは手を伸ばし、サイガの手を取った。

 そしてその手に、光の刃を握らせる。

 何も自刃しろと言うのではない。光龍神は、恐らくその覚悟を決めているであろう相手にそっと言った。

「これを使って、見せてくれないか。『十構の演舞』を」

「──え?」

 言われたことの意味が解らぬようにサイガが顔を上げる。

 何も知らず、何も解らぬ無垢の赤き瞳。ふたりはこのときになってようやく、ここで初めて視線を交わしていた。

 見上げるサイガの目が刹那、動揺に揺れた。何か言いかけたのだろうか、開きかけた唇がぐっと引き結ばれる。

 リュウガはそんな彼の緊張を解くように笑んで見せ、言った。

「聖龍剣術の基本に倣う、全十手の型を演舞にしたものだ。知っているだろう?」

「それはもちろん存じておりますが……」

 サイガは戸惑い、自分の手に押し付けられた神の刃に目を落とす。

 演舞を見せること自体に、彼は何の問題も感じていない。けれどそのために己が手にする物が神器となれば話は別だ。

 七支刀ならば自分のものがある。わざわざこれで無くとも──そんな心境がありありと見て取れるが、これが『罰』である手前、口答えも辞退も認められない。

 無論サイガには、これで許されようという気は無いだろう。実直にして厳格たる彼は、神に科せられたことを忠実に受け入れるだけなのだ。

「……リュウガ様が、そう望まれるのであれば」

 自分の意にはそぐわないけれど──その意を飲み込んで答え、彼は光牙七支刀を手にすっと立ち上がった。神前から身を下げ、刃の切っ先も届かぬ距離を確かに置いたサイガは、抱いた神器に頭を下げて敬意を尽くすとそれを正眼に構える。

 演舞は音もなく始まった。


   2


 一の型、『正眼』。主に前方の敵に相対する構えであり、基本中の基本となるもの。派生するのは斬り払いと打ち下ろしだ。足を踏み出し力強く宙を薙ぐ風の音を、金色の光の軌跡が追って流れていく。

 二の型、三の型──身をひるがえし、サイガは次々と演舞を展開する。

 非常に厳かで、美しい舞だった。この演舞は本来、演者が大勢を前に修得したすべての技を披露するために構成されたものなのだが、リュウガはこれを、決して誰の目にも触れさせたくないと思った。

 間違っても、剣技のケの字も知らないような、平和ボケした旧い神々の見世物には──。

 感嘆の吐息をも含んでその手元に目を向けたとき、ふとリュウガはサイガの柄の握りが正規のものではないことに気付いた。

 自分のそれと同じだ。──すなわち、旧くなった型をライセンに調整され、より洗練された改作版なのだ。

 サイガはライセンのことさえ覚えていない。

 けれど、ライセンから学んだことを、何も忘れていない──。

 不意に泣いてしまいそうになって、リュウガは目を伏せる。そのとき彼は、まさしく天地を見失うほどの驚愕に息をのんだ。

 足下の水鏡に、サイガが映っている。

 光牙七支刀を手に滑るような歩を踏む彼は、流れる髪の先までも美しい。

 その装束が、この宵闇のように濃く深かった。

 朱の飾り紐に結われているはずの髪が、広くたなびいていた。

 それは紛うことなく、かつてリュウガが焦がれてやまず、未だ彼の心を熱く縛るサイガの姿そのものであった。

 彼はもう堪らなくなって、何を考えるより早く駆け出していた。

 リュウガは気付いていなかった。己の足下に映る自分もまた、かつての姿であったことに。

「サイガッ!」

 愛しい名を叫んで両腕を伸ばし、足を止めた彼を、有無を言わさぬ力でかき抱く。

「リュウガ様……っ!?」

 驚いたサイガが取り落した光の刃が水鏡へ滑り落ち、光の粒となって弾けて消えた。

 最高の光源を失って、あたりは再び深い闇に覆われる。水鏡の幻もほどなく消え去り、すべてが静寂へと戻った。

「リュウガ様、危のうございます」サイガは叱るように言った。「仮にも刃を持つ者に、そのように安易に近付かれてはなりませぬ」

「ごめん」サイガの肩口から顔も上げないまま、リュウガは言った。「ごめん……」

 謝るくせに、腕を緩めて離れることができない。

 放つ言葉が嘘と建前を帯び、意味を無くす。自分の腕の中にいるサイガの感触をもっとよく確かめたくて、彼はむしろぐっと力を強めていた。

「……リュウガ、様……」

 と、サイガの呟きが色を変える。すこし苦しげに聞こえたそれに、リュウガは我にかえった。どこか痛かったのかもしれない。

「っあ、すまない、サイガ」

「いえ……」

 返る言葉の歯切れが悪い。そんなサイガの手は、まだ神の胸元に置かれたままだ。もしリュウガが再び身を寄せようとするなら、彼はその手ですぐに拒むことができるだろう。

 だが、そうではないようだった。俯いたサイガの表情は憂いを含み、何かしら悩みでも抱えているように見える。触れている指先が、確かめるように小さく動くのをリュウガは感じていた。

「サイガ……?」

「……」

「すまない、驚かせてしまって。でも……」

「違うのです、リュウガ様。……違うのです」

 決してリュウガの行為のせいではないことを強調し謝罪を返上するものの、サイガは目を上げようとはしない。

 このまま何も聞かなければ、何も言わずサイガは去るだろう。何となくそれを察し、リュウガは言った。

「どうしたんだ。気に入らないことがあるなら、何でも言ってくれ」

「……」

 サイガは刹那、答えることを迷ったようだった。

 けれどここまで問われて何も答えずにいることは、もうできない。彼は観念したように口を開いた。

「……あなたにお会いすると……胸が苦しいのです」

「え──」

「御声を頂けるのを嬉しく存じます。御目をかけて頂けるのは誉れです。……けれど」

 サイガは声を震わせ、まるで罪人が白状するように言った。

「それ以上を求めてしまう自分が居るのです。もっと近く、もっとあなたの傍に在りたいと望んでしまう。神に仕える身としてあるまじきことと解っていても、……あなたを想うと、安らぐのです…」

 自分が常々サイガに向けている想いがそっくりそのまま言葉となって返ってきた気がして、リュウガは唖然としてしまった。

 だから、彼がサイガの言葉を理解するには少しかかった。また自分はおかしな夢でも見ているんじゃないかと現実を疑ったせいもあったが。

「リュウガ様。どうかこのまま、私をお放し下さい」

 身を切るほどにも切なくサイガは乞うた。

 堪え切れず濡れた目を伏せ、そうすれば諦めがつくのだと彼は暗に語ってやまなかった。魔人に過ぎぬ者が自身を創造した神々の一柱に心を寄せようなど、ましてそれに答えを求めようなど身の程を知れ……その怒りに触れれば、自分はすべてを振り切ることができるからと。

 天界で唯一の、同じ龍族であったからか。

 かつての旅を魂が覚えていたのか。

 理由はさまざまにあったかもしれない。でも、もうどうでもよかった。

 サイガの心は今、確かに自分に向いている──その認識が早いか、リュウガは改めてサイガを強く引き寄せていた。

「リュウガ様──」

 何事か言いかけた唇に、自分の唇を重ねて塞ぐ。

 言葉を返すのも態度で示すのも、言ってしまえば面倒だったから、深く繋ぐことでリュウガは応えた。これが神の単なる戯れなどではないことを知らせたくて、半ば夢中で、熱く、激しく──。

 息を継ぐことも忘れた十秒足らず。ようやく離れたふたりの合間で、それでも満たされぬ名残惜しさが糸を引く。互いに見つめ合うほんの一瞬、リュウガは、サイガの蕩けた瞳の中で強い感情が揺れていることに気付いた。

 畏れと、歓び。神を愛した己の罪深さを悔いる一方で、受け入れられる安堵と期待を抑え切れずにいる。

 リュウガも同じ想いだった。

 ずっと、ずっと今までサイガを忘れたことはなかった。

 強く在れと遺された言葉に従って、彼はついに闘神にまでなったのだ。

 ぜんぶ、あなたが居たからこそだ。

 そしてこれからも、あなたとともに在りたい──。

「愛してる、サイガ」その想いは、ひとつの言葉になる。

「はい……リュウガ様」

 身を沈めるリュウガに合わせて、答えたサイガは膝から水鏡の床に崩れた。

 再び交わした唇を暴いた肌に落とし、手は、肩や背を滑って脚まで探る。初めて触れたサイガの身体はリュウガに応えるようにゆっくりと熱を帯びていき、愛撫のたびに漏れる吐息と、今にも達しそうな甘い嬌声には脳髄を蕩かされる思いだった。

 魔力が高い者は肉体の感応力も高いと聞いたことがある。かつて乱世を生きたこのサイガは、戦局において敵の一挙一動を細かに感じ取ることで生死を分かってきた。その研ぎ澄まされた感覚がこんなところに活きてくるとは、本人も想像だにしなかったろう。

 愛しかった。この者が、これまでに身に着けてきたものすべてが。

 応えてくる手も声も、なにもかもが。

 込み上げる衝動に任せるまま、リュウガはサイガの中へと身を進めていった。


   3


「あ、ぁ…っああぁあっ」

 己に分け入るリュウガに押し上げられるように、サイガの唇を高い声がつく。

 どうやら多少の慣れがあるらしく、苦痛はそれほどでもなく見えた。

 サイガがその身を他の誰かに抱かれたことがあるのだと察しがついても、リュウガは大して気にならなかった。これほどの者なのだ、女でなくとも周囲が放っておくわけがない──彼は納得さえしていた。むしろ何も知らないほうが不自然だというくらいに。

 でも──。ちょっとばかり、悪戯心がわかないでもない。

「神に献じた身が穢れを帯びていようとは、笑えないな」

 浅く身体を揺さぶりながら、すこし意地悪くリュウガは言った。すでに繋がった今、サイガがどんな反応をするか見てみたくて。

 リュウガの時代にサイガの伝承などほとんど残っていなかったし、本人に問い質したこともなかったから何もわからないけれど、千年の時を経て自分に繋がった以上は、彼が生涯を共にした人物のひとりくらいいたかもしれない。

 それを思えば、サイガの身の『穢れ』は、正味の話『穢れ』と呼ぶべきものではない。

 腹も立たないし苛立ちもしない。

 ただほんのすこし、悔しいだけだ。

「お赦しを、…リュウガ様…ぁ…っ」肌を粟立たせて、嬌声を抑えてサイガは言った。「罰ならば、如何様にも……」

 やはりというべきか、相応の覚悟はあったようだ。何といっても魔人の分際で神に心を求めるのだから、もともと死罪も有り得た話である。そうまでして自分に想いを寄せてくれたサイガには、然るべき答えを与えてやらねば悪いだろう。

(罰、……か)

 リュウガはひとつ息を吐くとサイガの腰を抱き、ぐっと繋がりを深めた。

「うぁッ、あ、あ!」

 一息に奥まで押し入られたサイガが息を詰まらせる。合わせて充血した内側の肉が引きつり、リュウガを舐めるように包み込んだ。

 それは表面こそ舌にも近く柔らかいのに、強く押し付けると少しかたいものを含んでいる。そんな感触が途方もなく心地好くて、彼はそこを狙って律動に及んだ。

「あッく、ふ、あぁあっ」逃れる隙もなく抱きしめたリュウガの腕の中で、打ち付けられたサイガがびくびくっと小刻みに震えた。上がった声は悲鳴にも近いのにあからさまな悦に染まり、吐息にすら高い嬌声を含んで漏れていく。

 リュウガが心地好く感じたところは、サイガにとっても最高の感度がある部分であった。ああだこうだと考えなくても繋がるだけで互いに満たし合えるようにできている。どうやら彼らは身体の相性がとことん好いらしい。

「サイガ…ッ」

 リュウガは子供のころに戻ったように嬉しくなって、夢中でサイガの中を探った。自分が好ければサイガも好いなんて、サイガに苦痛や不満、あるいは不安はないかと危惧さえしていた彼にとって、これほど判り易くありがたいことはない。

「リュウガ、様ァっ」サイガがやっとのことで呼ぶ。「も、もうすこし、緩く…ッう」

「必要ないだろう?」リュウガは力を緩めないまま言った。「もっとあなたの声を聞きたいんだ」

「でもっ……う、っぐ」

 腹の底からくる快楽に流されそうになるのを堪え、サイガは身震いする。奥歯を噛むその表情に彼が持つ本来の『激しさ』が垣間見えて、リュウガは純粋に男としてこの『女』をいかせてみたくなった。

 じわじわと早まる律動の中、サイガの頭を抱き寄せて髪に口付けをしたリュウガは、ふと解けかかった朱の組紐に気付いた。軽く端を引くだけでそれはするりと解け、蒼い髪が視界に広がる。

 サイガはこっちのほうが絶対似合うのに──。リュウガは常々そう思っていたが、口に出したことはなかった。

「ッは……あ、リュウガ様っ…」

 伸びてきたサイガの手がリュウガの頬を撫でる。それに自分の手を重ねて応える彼の唇に、すっと指先が伝った。

「リュウガ様……」熱に浮かされ快楽に蕩けた瞳で、サイガは懇願した。「どうか、口付けを……」

 もとが白いから血色を得て桜色に染まった頬。高位なる神への度重なる要求を申し訳なく思うのか、遠慮がちなその目付き。……けれど、与えられるときを待ち望み、わずかに開いた濡れた唇。このサイガを前にして、その要求に応えぬ者など居るはずがない。固唾をのむような間を置いて、リュウガは求められるまま身を沈めた。

 触れ合う間際、待ちきれず口を開いて舌を伸ばしたのはサイガのほうだった。

 目を閉じ、口内で絡み合う感触と身体の律動を合わせることに集中する。サイガがリュウガの中をなぞり、あるいは柔らかなところを吸って誘う一方で、リュウガもサイガの敏感な肉を押し上げ、小刻みな律動で追い立てる。

「ん、んぅ…っう、あ」びくん、と、ひときわ強く跳ねたサイガが喉を逸らし、絶頂に達した。「あ、あぁぁっ、リュウガ様……っリュウガ様あぁっ」

「サイガ……ッ!」

 ざわりと波立つサイガの媚肉に触発されて、リュウガもまた熱を放った。

「あ、あぅう…ッ」鋭敏なところにリュウガの快楽を流し込まれ、サイガはつい今しがた達したばかりのはずが声を上ずらせて身を震わせる。

 程なくリュウガが崩れ、サイガがそれを受け止めて。

 ふたりは互いの息が整うまでの短い間、心地好い激しさの余韻に満たされる。

「……サイガ」リュウガがうわ言のように呼んで彼の頭を抱き、髪に頬を寄せた。「愛してる、サイガ」

「リュウガ様…」目を閉じて神の言葉を聞き入れ、サイガはその背に腕を回す。「私も、お慕いしております……」

 これが夢ならば、もう二度と覚めなくていい──。

 夢のような場所で夢のような時を過ごしたふたりは、まったく同じことを考えていた。


   4


「──サイガ様っ!?」

 夜が明けて程なく、部屋に飛び込んだクオンはそこでうっかり大声を上げてしまっていた。

 昨晩、誰かしらの召致に応じて外出したきり戻らなかった主を捜して、彼女は天界のそこかしこを一晩中駆けずり回っていたのである。

 しかしどこを捜せどサイガを見つけることは叶わず、改めて彼の寝所に戻ってみれば彼は当たり前のようにそこにいたのだ。

「ん……?」

 血相を変えた腹心の叫び声を聞き付けて、サイガはのそりと起き上がった。少々気怠そうなその表情からは、まだ寝足りない様子が察せられる。

「なんだ、クオン。騒々しいぞ」

「し、失礼を致しました」背筋を整え、クオンはとりあえず謝罪する。「サイガ様、昨晩はどちらにおいでで?」

「あ」しまった、とばかりにサイガが声を漏らした。「すまん、おまえに伝えておらなんだな。リュウガ様の御召致で出ておったのだ」

「リュウガ……様の、ですか」

 うっかり呼び捨ててしまいそうになり、クオンは慌てて訂正を加えながら答える。

 なんだ──。彼女は肩の荷が一気に落ちたように息を吐き、ほっとした。

 彼女は、バランシールに知れぬよう密かに生前の記憶を与えられている。それを成してくれたのはリュウガを筆頭とした五光神であった。

 同じ方法でサイガの記憶も回復させることができる話にはなったものの、サイガの性格上それを隠しておくことがほぼ無理であること、そしてそれがバランシールに知れれば、彼にはもちろん、他の顔見知りの神々にどんな危険があるか判らない──そういった事情を聞かされ、彼女は自らがサイガの盾となるため常時周囲に目を光らせていたのである。

 クオンは、その並外れた魔力と洞察力で、リュウガがサイガに特異な情を抱いていることを聞くまでもなく知っている。しかも彼ら五光神の人間時代のことをよく知り、加えて生前の記憶を回復させてもらった恩もあって、サイガを守ってくれと依頼してきたリュウガは彼女にとって同志も同然であった。

 てっきり反逆者迎撃戦のことをバランシールに咎められているのではないかとばかり心配してしまっていたが、リュウガのもとに居たのであれば様々な意味で安心だ──。

「お休みのところを申し訳ありません」クオンは改めて言った。「私は任に戻りますので、サイガ様はそのまま……」

「……」

「サイガ様?」

「──え、あ」

 座り込んだままもう一度寝てしまいそうにでもなったか、ぼーっとしていたサイガが弾かれたように振り向く。

 どこか、御身体の具合でも──クオンがその常套句で訊ねる前に、彼は取り繕うように言った。

「なあクオン? おまえは身こそ半獣であれ、心は聖龍であろう」

「は。仰せのとおりにございます」

「では、やはりリュウガ様に何かしら感ずるものはあるか?」

「……は?」どう答えたものか、とクオンは首を傾げる。「失礼ながら、おっしゃっておられることの意味を、少々解りかねます」

「そうか……」

「やはり、と申されますと」クオンは気にかかったことを率直に言った。「サイガ様は、かの光龍神殿に思う処がおありで?」

「……ああ」

 そんなことはと否定が返るものかと思いきや、あっさりと肯定されてクオンは面食らう。

「本来であれば、あの御方の龍族たるを我らと『同等』などと称してはならぬのだろうが、それでも……」

 サイガは視線を下げ、自分の胸元にすっと手を置いた。何を思うのか、その指先が肌を掻くように握られる。

「何故であろう。あの御方が……こんなにも懐かしいのは」

「……」

 クオンはすこし慎重に、夢見るようにそんなことを言う主を見つめていた。

 記憶とは、人格形成そのものと称しても過言ではない。よって、その有る無しで同一の対象に抱く感情さえも様々に変容させる危ういものだ。

 過去の記憶がない限り、いくら考えを巡らせようともサイガが真実の答えに辿り着くことは絶対にない。だがそれゆえに、リュウガに見出した『懐かしさ』の意味を取り違えることも往々にして有り得る。

「サイガ様。あまり、お考えすぎませぬよう」クオンは言った。「如何様な理由にあれどリュウガ殿は闘神。いくらあなた様といえど、御心を寄せられるには不相応な御方です」

「解っておるよ、クオン」

 ちょっとした苦笑いを含んで、サイガは答えた。

 だからクオンも、ひとつ息を吐いて安心した。


 時既に遅かったことを、彼女は知らなかった。




                                     END(2016/07/03)