天に咲きたるき華



 ──時が、まるで停まったかのようだ。

 ライセンとシオンは、言葉もなくその姿を見つめていた。

 乾いた風に揺れるのは水底の長い髪。彼らを厳しく見つめるのは鋭い深紅の双眸。そして戦場において首を守る目的で身に着けることが多かった、紫暗の色をした大きな襟巻がバサリとひるがえる。

「……サ」シオンが呆然と呟いた。「サイガ……」

 あの日から、もうどのくらいの年月が過ぎたのかなんて数えてもいなかった。

 だが彼らが知る中でも、あの頃はもっとも辛く、もっとも厳しく、そしてもっとも温かな日々だった。

 彼は、その日々の中心にいた者。彼のために命を張った回数なんて知れない。ライセンとシオンの生まれである聖龍と呼ばれた部族、若くしてその王を務めた者──。

 ヴヴン。その者の手に、空気を震わせて見覚えのある剣が姿を見せる。彼はそれを握り締めると、目の前に立つ二人に……否、その奥に立つメビウスに向けた。

「貴様が天に仇なす不敬の輩か!」聞き覚えのあり過ぎる声が反響する。「我が名は聖龍王サイガ! その身をもって己の罪深さを知れ!!」

 身構えた彼の身体がバチリと帯電し、見る間に魔力が膨れ上がっていく。このあとに来るのがどれほどの攻撃か、彼らはこれでもかというほどよく知っていた。

「待ちなさいサイガッ」たまらずライセンが叫んだ。「私たちの話を──」

「七天伐刀ォ!!」

 解放の叫びとともに、大放電の斬撃が飛んだ。

 有無を言わさぬ攻撃にシオンの回避が遅れる。先に跳躍したライセンが手を貸すには間に合わない。

「キャアアッ!!」

 せっかく取り戻したばかりの肉体を今一度失う覚悟も決まらないシオンを襲った雷の衝撃波は、彼女に到達する直前で真っ二つに打ち払われて左右へ吹き飛び、はるか後方で弾けて爆発を起こした。

 シオンを庇ったのはメビウスだ。

「師匠、シオンを頼みます!」

 叫んだライセンは離れたところへ着地すると、サイガに向かって地を蹴った。サイガはすでに構えを変え、ライセンを斬り払うべく跳躍している。上から降り下ろされた帯電した刃と、下から迎え撃った輝く刃とが撃ち合った瞬間、地表を砕くほどの衝撃波が放たれた。

 迷いのない一撃。みなぎる敵意と戦意──ライセンはその一瞬でサイガのあらゆる意識を感じ取る。剣はそれほどまでに使い手の心を示すのだ。

 まさか、このサイガは術による幻影か? そのような疑惑が浮かんだとき、目の前のサイガが太刀を斬り払って中空へ離れる。

「貴様、聖龍の者だな」着地したサイガは厳しい怒りを込めて言った。「誇り高き龍族に在りながら、魔道に堕ちた者に与しようとは言語道断! 一族の不浄、せめて俺がこの場で祓ってくれよう!!」

 違う──。ライセンは確信した。このサイガは、断じて偽物や幻惑などではないと。その程度のものでは、この者の気高き意志や力までを映し取るなどできはしない。

「正気に戻りなさい、サイガ!」ライセンは叫んだ。「私のことを忘れたか!?」

「問答無用!!」

 サイガが再び地を蹴る。すくい上げるような剣撃を跳びかわし、放たれる放電を斬り捨てると、追って跳躍してくる彼と中空で幾度も刃を撃ち交わす。

「やめなさい、サイガ!」下からシオンが叫んだ。「親も同然の師に刃を向けるとは何事なの! 剣をおさめて、私たちの話を聞きなさい!」

「黙れ、俺に師など居らぬわ!」

 ライセンのそれと噛み合った刃をじりじりと押しながらサイガは叫んだ。

「俺の父にして母であるは、調和神バランシール様のみ! 俺を惑わしたくば、もっとマシな狂言を用意するのだな!」

 想像もしなかった言葉。ライセンが息をのんだ瞬間、相手の闘気が緩んだのを感じたサイガが、今一度帯電した一撃を撃ち出す。

 まさに首が飛ぶかに思われた瞬間、再びメビウスが間に入った。手にした錫杖が軽やかに回転したかに見え、サイガの電撃が七支刀ごと彼方に弾き飛ばされる。

 次の瞬間、首を横へかわしたメビウスのすぐ傍を、銀の刃が風のように突き抜けた。避けていなければ眉間を貫かれていたであろうそれは、サイガが懐から抜き取った予備の脇差であった。主流の武器に拘らず即座に第二の行動へ移行するその決断力、電光石火とはこのことだ。神速を謳われる雷閃流を汲むだけのことはある。

「自ら討たれに来たようだな、魔道の者!」激しい怒りを剥き出しに、サイガは叫ぶ。

(ライセンの弟子か…)メビウスは探るように思考する。(調和神め、嫌らしい手を使う!)



 ──かの最後の戦は、このようにして幕を開けた。

 この地の至るところで展開された戦火の中には、ポラリスやシリウスの姿さえもあったと、ライセンらは伝え聞いた。

 何故、彼らが。その疑問がかつてなく彼らの心を揺り動かす。

 裏で糸を引くは天界の最高神、調和神バランシール──。

 彼とも彼女とも呼べぬその存在の手によって、永遠なる輪廻より引きずり出された蒼き魂。それが在りし日の姿と名を取り戻し、再び『サイガ』としてこの世を見るようになったのは、この開戦よりまだしばらく前のことである。



 調和神バランシールが座す天界最奥の神殿からは、絶え間ない歓声が響いてくる。太陽の神が一日の役割を終えてあたりが闇に沈む夜となっても、そこからは眩い光が漏れ出し、息づく活気が伝わってきた。

 それは、非常に喜ばしいことであった。──本来ならば。

「……リュウガ。どう思う……?」

 神殿の門前に立ったリュウガの隣で、シズクがすこし不安そうに訊ねた。

 今夜バランシールが開催した宴の席には、このリュウガも招待されている。

 彼といえば光龍神、最高神であるバランシールの補佐役としても名高い十天闘神の筆頭だ。普通ならどのような催しであろうと、主神の傍に席があって然るべき……だったのだが。

「あの御方を悪く言うつもりはないが」と、リュウガは前置きした。「何かウラがあるのは間違いない。いつもの……ただの宴じゃなさそうだ」

 その警戒に無理はない。実のところ、こうして十天に所属する者が主神の催しに公式な参加を認められたのは、このリュウガへの招待をもって実に数十年ぶりのことなのだった。

 数十年、といってしまうとヒトの尺度では途方もない歳月だが、彼ら神からすればここ最近といった程度の期間だ。──このとき、彼らの主神であるバランシールには、ひとつの異変が起きていた。

 日夜絶え間なく宴を催しては他の神々を自堕落へと懐柔し、また、なかなかその誘いに応じない十天を煙たがり避けるようになったのだ。

 他の神々も無論、すべてが取り込まれるばかりではない。しかし、主神に諫言を呈すべくその神殿を訪ねた者は誰も戻らなかった。生きているのか死んでいるのか、それさえ判別できぬほどに存在を失い、姿を消してしまったのである。

 万物に自由と自治を与え給う慈愛が、束縛と支配を強いる無関心へと変わる……さしもの十天もいよいよ事態を見かねて、リュウガら五光神がバランシールの御許を訪ねた。

 だが──。

「せっかく来たのです。テラスに会っていきなさい」あのとき、バランシールは五光神の言い分など何も聞かず、無機質な表情で淡々とそう言った。「あなたたちが彼女に会えるのは、ここでのみ、なのですから」

「それはどのような意味で申されているのか、バランシール様」

 連れのオウキが厳しく問う。

 けれど主神はぴくりとも表情を変えず、機械のように答えた。

「言葉のままです、深い意図などありません。──ですが、あなたたちが私の言葉を如何に受け取るかを、私は縛りませんよ」

 かつての皇帝テラスも、光の戦士を指揮した功績を認められて天界へ上がっている。彼女は志を共にした者としてリュウガを慕うあまり、神となってからの時間の大半を彼の神殿で過ごしてきた。その入り浸りぶりは他の神々から押しかけ女房とまで揶揄されたほどだ。

 しかしそんな彼女の姿を、しばらく前から見なくなった。主神からの急な呼び出しで席を外してからというもの、門限を守る娘のように日の入りには神殿を去るようになり、そのうち現れることもなくなっていた。バランシール様の神殿で変わりなく過ごされている、と伝え聞きながら、主神の変貌と同じくして気にかけていたのだが。

 リュウガは虚ろな主神を見つめ、理解していた。

 余計な口出しをするな──そういう意味なのだと。

 疑惑は、急速に危機感を伴って確信に変わった。



「行くの?」

 シズクが確認するように言った。

「行くさ。応じないわけにはいかない」

 リュウガは小さく溜息をつき、シズクとわかれて門の中へと入って行く。招待を受けていない彼女に、この門の中へ入る資格はないのだ。

「気を付けて、リュウガ」背後から祈る声が聞こえた。

 バランシールは変わった。

 そして天界は今、その影響を受けてかつてないほどに堕ちている。それはもはや太古とさえ称せる遥かな過去、バランシールの前身・クリエールが不在だった当時にも匹敵するが、今回は主神が存在する上でのことだから尚タチが悪い。

 原因を突き止めようにもテラスのことが枷となり、そしてリュウガら自身も十天という立場にある以上、動けば必ず主神の目に留まる。

 八方塞がりだ。

 ここまできたら、もうこの事態を『天界制圧のチャンス』と見てくれてまったく構わないから、宇宙人でも他次元の魔神でも何でも侵略して来てくれ──と、リュウガは時々、そう考えては頭を抱えていた。天界を舞台に大きな騒動が起これば自分らの行動をごまかせる。真意の隠れ蓑にできる理由も事情も、いくらでも作ることができるようになる。

 天地の治安を統率する十天の筆頭としては、あまりに稚拙すぎる投げ出しだ。他力本願もいいところである。

 けれど、事態はすでに、そうした不確定かつ予測不能な因子に頼らざるを得ないほど、切迫しつつあるのだった。

「十天闘神筆頭、光龍神リュウガ様、ご来場」

 扉の番人の声とともにそこが開かれ、内側から光と歓声が溢れてくる。夜闇の中を歩いてきた彼にその光はいささか強かったが、すぐに慣れた。

 中の大広間では、このところ姿を見なかった数多の神々が手を叩き、酒を飲んで熱狂している。中には顔見知りの神もいたのだが、彼らはリュウガの来場にも気付かない様子だった。

 天界の行く末を案じる自分らを他所に、彼らはいったい何をやっているのか。さすがのリュウガも苛立ちを禁じ得ず、奥の輪へと進んでいった。

 彼の接近に気付いた一部の者が道をあけ、最奥の輪が彼を迎え入れる。

「……な……」

 そのとき、彼は息をのみ、絶句した。

 そこにはバランシールが居た。

 傍らにはテラスも居た。

 とっくに隠居している高位の神々が居た。

 けれどリュウガの目には、もう、誰の姿も入ってこなかった。

 輪の中心で舞を演じる踊り子を見つけたとき、彼の思考は停まってしまっていた。

 踊り子としては珍しく、その者は男だ。しかし、蒼穹を思わせる長い髪は女神らさえも羨んで称賛し、すらりと伸びた痩身にまとう白の演舞装束が似合い過ぎている。彼は金色の鈴をくくりつけた脚を踏み鳴らし、幾重もの腕輪に飾られた腕を振りかざして涼やかな音色を放っては、薄雲の飾り帯を広くたゆたわせる。

 女性のような優美さはない。けれど女性にも成し得ぬ繊細さと、それを覆す力強さで舞う彼は、観覧する多くの神々を魅了してやまなかった。

 不覚にもリュウガは、神殿から溢れていた光はこの者が放っていたのだと思った。

 彼はその者を知っていた。知らないわけがなかった。何故ならその者はリュウガのルーツそのものだったからだ。彼の血肉はこの者から成ったとしても、断じて過言ではない。

 今や存在すら伝説となった聖龍なる部族の誉れ高き君主。名は、聖龍王サイガ──。

 唖然としたリュウガを見て、バランシールが小さく笑ったことなど本人は気付かなかった。テラスが不安そうに、声をかけることもままならぬ状態で見つめていたことも意識に入って来なかった。

 何故。何故この方が今、ここにいる──。リュウガはその疑問を覚えてようやく我にかえっていた。何故こんなところで、見世物のような真似をしているんだ──。

「──サイガッ」

 たまらず、声を張っていた。

 シャン……一定律で続いていた鈴の音が止んだ。

 呼び止められたサイガが舞うことをやめると、その頭上からふわりと飾り帯が降ってきた。歓声は間を置いてざわめきに代わり、皆が一様に光龍神を振り返る。

 居た堪れないくらいの静寂の中、サイガがリュウガに向かって踏み出した。リュウガの脳裏に、声を聞くより早く相手の言葉が再生される。おう、リュウガではないか。久しいな──屈託のない、その笑顔までも。

 けれど、その期待にも似た予想はあっけなく外れた。

 リュウガの目の前までやってきた彼は、すっと身を屈すると、当たり前のように深く頭を下げたのだ。

 驚いてうろたえるリュウガに、サイガは澱みなく言った。

「御前に参じるは初となります、光龍神リュウガ様。数在る闘神の中でも『龍』の名を冠される貴殿への拝謁、光栄の至りにございます」

 ──リュウガははじめ、彼が何を言っているのか理解できなかった。答える言葉は完全に失われ、立ち尽くしたまま無音の時間だけが永遠に過ぎていきそうだ。

「その者は私が呼んだのです」

 輪が崩れて道となり、その奥からバランシールが歩み出てきた。それを合図に立ち上がったサイガはリュウガに一礼すると、二柱の邪魔にならぬよう身を退かせる。

 その仕草には、バランシールやリュウガに対する謙譲の意こそあれど、かつては誰に向き合っても崩れることのなかった、ある意味では尊大と言わざるを得ない態度はどこにも見えない。神であるリュウガには、このサイガが幻影や偽物ではないことなどとっくに見えている。だからこそ彼はより混乱し、困惑した。

 正面に目を戻せば、しばらくぶりに改めて向かい合う主神。激しい動揺を押し隠したリュウガは、それでも相手の表情が以前よりもはっきり現れていることに気付いた。

「この者は生前、大層な芸達者であったそうではないですか」フフ、と嬉しそうに笑いながら神は言った。「ぜひ一度、この目で見てみたいと思いましてね」

「その、ためだけに?」リュウガは唖然と訪ねた。

「ええ」神は平然と答えた。「けれど、生前より遥かな時を経た今、見知った顔のいないこの天界で淋しい思いをしないように、記憶の完全な再生はせずに留めておきました」

「……」

「聞けばこの者、武芸にもかなり精通しているとか」愉しげに神は笑った。「我らが誇る十天筆頭の光龍神と、どちらが上でしょうね」

 バランシールの軽い冗談に、周囲の神らから小さく笑いが起こる。

 その言い草たるや、まるっきり遠方から呼び寄せた旅芸人でも紹介するかのようだ。

 しかし事態はそれほど軽くはない。……まったく、これっぽっちも笑って口にできる話題ではなかった。

 聖龍王サイガといえば、リュウガら五光神が初めて人間として生を受けた地、神羅連和国の創立者なのだ。彼の存在なくして五光神の誕生はなく、ゆえに現在の天界に在る神々の大半が彼を礎にしていると断じて相違ない。

 本来ならば天寿をまっとうしたのち、すぐに主神クラスの扱いで天界へ上がっても不思議ではない者である。だがこの魂は、永遠足る神と成るをよしとせず輪廻へ還り、もはや神々でさえ所在を掴めぬ遠いところで、かつての自身を忘れて今も『旅』をしていたはずだった。

 それを、ここに立たせた。

 あろうことか自分らに従順であるように記憶の操作までして。

 いかなる理由があったとしても、そしてたとえ天界の主神であろうとも、その行ないは許されることではない。

 言い知れぬ怒りに駆り立てられるように、リュウガの拳が力を強める。

 だがここで本当に、感情のまま力のタガを外して大放電でも起こそうものなら、いかなリュウガといえど即刻謀反人として処刑対象となるだろう。バランシールの狙いはそこにある。

 砕けるほどに奥歯を噛む彼を、テラスは離れたところで見ていることしかできない。

「さあ、サイガ。次は楽器を奏でましょうか?」

「御意に。バランシール様」

 踵を返して自席へ戻っていく主神に、一礼とともにサイガが答える。

「リュウガ、あなたも今宵は楽しんでいきなさい。サイガが奏でる調べは、あなたにとって、とても懐かしいものであるはずですから……」

 いとも平然と主神は言い、笑う。とても楽しめるはずがないと、リュウガの心の内を誰より手に取るように知っているくせに──。



 幾日かがあっという間に過ぎた頃、リュウガはサイガを自分の神殿に呼びつけた。

 バランシールからの邪魔立てらしき動きはなく、サイガは畏れながら光龍神の御前に参じる。所望されるまま、彼は聖龍の地に古くから伝わる地鎮の唄を奏で、唄った。

 彼の紡ぎ出す琴の音は、バランシールが言ったとおり、リュウガにとってとても懐かしく、そして心地の良い響きであった。

 時代も土地も用途も違うとはいえ、さすがは神を鎮める捧げ唄だけのことはある。サイガのような高い魔力を持つ者の手によることも相俟って、リュウガはこの数日、心にずっとくすぶっていた苛立ちの火が静かにおさまりゆくのを感じていた。

 遠く、まだ人間であった頃の記憶が鮮やかによみがえる。母親の胸に抱かれ、彼はまどろみの中でその唄を聴いた。千年も前から私たち一族に伝わる、とても古い唄なのよ──染み入るような優しい声が脳裏で反響した。

 耳障りになりがちな高い音を避け、落ち着き眠るに相応しい無理のない音を使ったその唄は、男でも女でも難なく唄い切ることができ、そして聴く者の心を総じて安らがせる。目を閉じているうちに白昼夢の欠片が視界をよぎり、眠りかけていた自分に気付いてリュウガは意識を浮上させた。

 気付けば唄も旋律も聞こえない。顔を上げてみると、琴の前に座したままのサイガがいた。

 その顔がからかうように笑って、彼は言うのだ。「よもや居眠りとは、俺の演奏はそんなにつまらなんだか?」──。

 その幻聴があまりにリアルすぎて、リュウガは一瞬、ぽかんと口を開けてしまう。サイガはそんな彼の心の内を裏切るように、申し訳なさそうに苦笑いした。

「闘神に在らせられるリュウガ様には、少々退屈でありましたな」

 明言されてもいないのに言い切りを使うのは、訊ねれば気を遣った否定が返るやもしれぬからと、神に余計な配慮はさせまいとする構えの表れだ。

 ずきりと胸が痛む。

「そんなことはないよ」身を預けていた腰掛けから起き上がり、リュウガは言った。「聖龍の古い歌や習わしは、俺もよく知っている。久しく懐かしい気分だ」

「それは良うございました」

 短く称賛を賜ったサイガが頭を下げる。

 そんな彼を見つめながら、リュウガ一瞬、言葉を切った。下位にして本物の芸子神を相手にしたように当たり障りのない会話をするには、彼は相手をよく知り過ぎている。

 いかに神といえど、リュウガはバランシールのように全能ではない。魂に流れた時間を巻き戻し、とうに忘れ去った記憶を再生させることは不可能だ。五光神全員が知恵を絞ればあるいはわずかながらの回復はできるかもしれない。けれどそれでは、かえって半端な記憶を押し付けて苦しめる結果にもなりかねなかった。

 あまり気は進まないが、何気ない話をするふりでもして、記憶や経験の程度を確認しておくに越したことはないか──リュウガがそんなふうに考えたとき、口火を切ったのは意外にもサイガのほうだった。

「龍族より出でたる光龍神リュウガ様は、我ら聖龍の誇り。私の持てる業が御心に届きますれば恐悦至極に存じます」

 いや、逆だろ──リュウガは喉元まで出かかった切り返しをぐっと飲み込んだ。

 自分のルーツたる神羅連和国の始祖が住まいを訪れた上、こうして自分のためにだけ古い旋律を紡ぎ、挙句に唄ってくれようなど、リュウガのほうこそ畏まる思いだ。

 ただ──。リュウガはふと、今のサイガの言葉に引っかかるものを感じた。間を置かずその単語に思い当たる。ただ虚しく、ただ孤独なその枕詞に。

「かつて『聖龍』と呼ばれた部族は」リュウガは静かに言った。「今やもう、あなたひとりだけだ」

「……仰せのとおりにございます」

 サイガは目を閉じ、神妙に答える。

 わかっている。

 それでも彼は言う。

 自分──聖龍は『部族』であると。

 我らは聖龍であると。

 バランシールが半端に形成した記憶がそう言わせるのか──リュウガは無性に腹が立ってきた。

「聖龍なる部族はもう存在しない。あなたはもはや一個人だ」すこし強く、リュウガは言った。「俺を龍族の神として慕ってくれるのなら、あなたはバランシール様の御許にあるべきではない。この神殿に身を置き、その力を俺のために振るってほしい」

「──いいえ、リュウガ様」

 あまりにもあっさりと否定の言葉が返り、リュウガは奥歯を噛むように言葉に詰まった。

 あんたのためを思って言っているのに──。あるがままに今の自分が抱いているバランシールへの疑惑を、そしてそんな主神によってサイガが利用されようとしている可能性を暴露してしまいたい衝動が込み上げるが、何の証拠もなくひとつも証明もできぬのでは子供の悪口と変わらない。

 サイガは淡々と言った。

「私は聖龍の長。バランシール様が前身・創造神クリエール様が造り出された『魔人』なる一族の血を宿す者です。バランシール様以外に忠誠を誓うべき神は居りませぬ」

「だからっ」リュウガは言った。このわからずや、と掴みかかりたい気持ちを堪えて。「聖龍の血は俺の代で終わったんだっ。幾多の交わりを繰り返して力は薄れ、かの七支刀ですら人間の手に納まる代物に成り果てた」

「……」

 立ち上がって声を荒げる神を、サイガは座したまま見上げている。恐れるでもなく驚くでもなく冷静に、その言葉を分析でもするように。

「国は亡く、民も持たずして何が王だ! 今のあなたには何もない!!」激高する感情のまま、リュウガは言ってしまった。あまつさえ誰のことも──俺のことも──覚えていないあんたじゃ、今に利用されるだけされて無駄に死ぬだけに終わってしまうんだぞ──。

 この天界における『存在』は、そのまま『魂』としての姿だ。すなわちここでの死は魂の死に他ならず、肉体と魂が別に作用する地上世界の者らとは根本から違った、輪廻など存在しない永遠の消滅に直結している。

 リュウガがサイガに対して恐れているのは唯一、その消滅死に他ならない。理由も原因も未だ不明ではあるが、今のバランシールははっきり言って狂っている。ちょっとした心向きひとつで、いつどのようにサイガを扱うか想像も予想もつかないのだ。

 本当に、ただ単なる芸子神のひとりとして召喚したはずがない。

 リュウガの突発的な謀反や無力化を狙うならばテラスだけで事足りる。

 ならば何のために? サイガがここに居るのにはきっと、もっと別な理由がある。

 そう、──利用目的が。

 だが、それがわからない。わからないからこそ、リュウガは不安だった。

 怖かったのだ。目の前に居るこの魂が、今日にも永遠にいなくなるかもしれないことが。

「畏れながら、リュウガ様」

 と、サイガは言った。すっくと立ち上がって、肩で息をしている闘神に歩み寄る。

「私が何も持たぬなど、そのようなことはありませぬ」

 きっぱりと言い切る言葉。その響きは、相手からの不本意な言葉を何の根拠もなく否定するそれではない。

「私自身が、聖龍最後の民なのです」

 続く言葉を聞いた時、リュウガは心の内が真っ白になった気がした。

「ならば私は聖龍の王として、民としての己に恥じぬよう生きるのみ。この意志は、バランシール様といえど曲げることは罷り成りませぬ」

「……」

 返る言葉はなかった。

 いや、返せる言葉など、もうなかった。

 リュウガは沈痛に目を閉じると、「わかった」と苦く答えるより他、何もできなかった。



 サイガが神殿を立ち去ってしばらく、リュウガはすべて失ったようにそこに立ち尽くしていた。

 ポロン……。ふと傍にあった琴が音を立てる。

 我にかえった彼が目を落とすと、そこでは金色の体躯を持った魔物──否、今やその邪なる意志ですらもリュウガのために在ると言い張り譲らぬ聖魔神マステリオンが、拙い子供のような仕草で琴の弦を弾いていた。

『懐かしい』マステリオンは夢見るように言った。『あの方の声も姿も、何もお変わりない。ああ……今一度、再びあの方をこの腕に抱いてみたいものだ』

「…………」

 リュウガは何も答えず、マステリオンが小さく弾く弦の音を聞いているだけだ。それはたどたどしくサイガが奏でた旋律を追い、崩れかかったいびつな唄を紡ぎ出す。

(ああ……だめだった)

 リュウガが心からそう溜息を吐いたのは、何もあの頑固者の説得に失敗したからとか、そういった失意のせいではない。

 実のところ、サイガが説得に応じないくらいバランシールに毒されているか、あるいは洗脳まがいの処置がされていたのであれば、リュウガははじめから力ずくでサイガを自分のもとに縛り付けるつもりでいた。

 もしものときには手を借りるつもりで、このマステリオンにも待機してもらっていた。

 だが、そうではなかった。

 永遠に等しい時の果てに輪廻よりよみがえってもなお、彼は壮麗な気高さを失ってはいなかった。何より調和を忘れ狂いつつあるバランシールに手を加えられていても、その魂はあくまで清浄であったのだ。

 過去のほとんどを忘れているにも関わらず、己という最後の誇りを貫かんとするサイガを力ずくで縛ろうとするならば、それはバランシールの所業を超えて許されることではない。

 要するに、サイガを守りたいと欲するならば、サイガが守りたいとするものすべてを守ってやる必要があるということだ。──ただ、サイガは誰かにそんなふうに施されるまでもなく自分の自負はほとんど自分で貫いてしまうだろうから、手を貸す側がその行動で負う損害はすべて自己責任と帰してしまうが──。

『どうするのだね、リュウガ』マステリオンは言った。他人事のように。

「……そうか…」

 と、不意にリュウガがぽつりと言ったものだから、返答としては少しおかしいその言葉を気にした聖魔神が顔を上げる。

「それなら、今までと変わりなく過ごせばいいんだ」

『……何を言っている? リュウガ』

「あの人を『助ける』ことはできない」リュウガは言った。「でも、あの人の『今』は、あの人自身が納得してのことだ」

『そのようだな』

 私も一度くらいは、あの方の舞を間近で見てみたいものだ──ぼんやりと続く言葉をリュウガは無視した。

「それなら、俺たちは今まで通りで居ればいい」

『……なるほど、そういうことか』マステリオンは笑った。

 テラスを盾にされ、もとより五光神は……十天は些細な行動もままならない状態だった。ここでリュウガが動くことをやめたとなれば、このまま時の経過とともに天界の堕落は更に加速していくだろう。

 けれど、それは十天闘神が何もかもを諦めるというのではない。

 彼らは獣のように息を潜め、あたりをうかがいながら待つことにしたのだ。

 この堕ちゆく天界に変動の時が来るのを。すでに地上において数多発生している異常の原因が、天界にあることを察する者が現れるのを。

 そしてそのときには、きっと。

 あなたも駆り出されるのだろう。サイガ──。握り締めた拳を見つめ、リュウガは心の内に言葉を紡ぐ。

 けれど、そうも簡単に彼を『駒』として使い潰させはしない。光龍神という最高の名にかけて、リュウガは決意を新たにする。

(俺が必ず、最後まであなたを守り抜くから──)




                      To be contonued in「天地神明の章」(2016/06/18)