君と出会う界に



 リュウガはいつになく緊張していた。

 幻魔宮殿の湯殿は飛天文化のそれに近い石造りの豪奢さで、強い治癒効能を持つ薬花の色をした、心地好い香りの湯が張られている。何より入浴者をリラックスさせることを優先しており防音も完璧で、水の滴るごく小さな音でさえはっきり聞こえる静寂に満ちていた。

「あぁー……」

 磨き抜かれた浴槽の縁に頭を寝そべらせ、淡い色をした湯に浸って、魂まで出て行きそうな気の抜けた声をもらしたのはサイガだった。

「良い水だなあ」彼は心から感嘆したように言った。「言うては何だが、とても瘴気に満ちたこの地の物とは思えん」

「……」

「なあ、リュウガ?」

「ふえっ!?」

 いきなり驚かされた時のように変な声が出てしまうリュウガに、湯から身を起こして振り向いたサイガはちょっと苦笑いを見せて言った。

「どうした、まだ落ち着かぬか?」

「い、いや……」リュウガはあたふたと言った。「別にそういうわけじゃ」

 サイガは、こんなリュウガの動揺気味な挙動を、オウキやボーンマスターのことを気にするあまりのものと捉えているようだが実はそうではない。

 アスタロットが呼びつけた侍女たちによって起床早々バラバラに連行されていった光の戦士たちは今、間もなく準備が整う食事に向けた各々の身支度の真っ最中だ。

  魔元帥はおろか光龍帝をも交えた正規の『会食』となる席に、地上代表である光の戦士が起き抜けの姿で着くわけにはいかないから……という理屈は解る。しかし、侍女と言うよりはアスタロットの妹分と称すべき可愛らしく着飾った少女らに脱衣所へ連れ込まれ、問答無用で身ぐるみ剥がされそうになった時にはさすがのリュウガも身の危険を禁じ得なかった。

 何故か残念がる少女たちを懸命に追い払い、やっと落ち着いて風呂に入れるとばかりに踏み込んだところで先客のサイガに「おう」と声をかけられて、彼は危うく濡れたタイルに足を取られてすっ転ぶところであった。

 まさかこんなふうにサイガと二人きりになるとは思わなかった。少女らを威嚇した元気はどこへやら、リュウガは借りてきた猫のように大人しくなって、浴槽の奥にじーっと座っているくらいしかすることがなくなってしまったのだ。

「気持ちは解るが、今ここで気ばかり張っていても詮無いことだぞ」サイガは言った。「ほら。そんな縮こまっとらんで、こっちへ来んか? 背中くらい流してやるぞ」

「い、いいってそんなっ! オレのことなんか気にしなくて全然いいからっ」

 リュウガは慌てて言った。ただでさえ目のやり場に困っているから離れているのに、傍に行くなどとんでもないことだ。

 それに、リュウガの身体はまだぎこちなさが拭えず、思わぬところが思わぬ刺激で痛みを訴えてくる。アスタロットの治癒魔法で癒してもらったとはいえ、それは深い傷が多少浅くなった程度のもので、彼女の「動けるようにしてやった」という言葉の域を出ないものだ。

 リュウガがサイガに近寄ろうとしないのは、サイガの肌に変な気を惑わされそうな危機感の裏で、そうして傷付き弱った自分を見せたくないという心持ちが無意識に強く働いているせいだった。

「おまえの気が進まんなら無理強いはせんが、おまえも無理をするな?」

「……」

 サイガは思慮深いのか天然なのかいまいち掴み切れないところはあるが、少なくとも今、気を遣われていることは確かだろう。困らせているかもしれない。リュウガはそれを意識するほど情けない気持ちになって、ろくに返事もしないまま会話を切り上げてしまった。

 なんでこんな恥ずかしいんだよオレ、意味わかんない──。呼吸にさえ気を遣う緊張や、ろくに目も合わせられない羞恥に近い恥じらい、挙句は下手な強がりじみた意地……これらリュウガの挙動に一番困り果てて頭を抱えたいのは、実は彼自身であった。

 地上で出会ってここまで、サイガとまともに向かい合う機会なんかそうなかった。それでも彼らがここまで迷いなく来ることができたのは、サイガ自身の、何を語るでもない献身的な助力があったところが大きい。

 本当ならその感謝を伝えたいし、もっと近くで話をしたいのだ。もし話すことがなくたって、傍でその気配を感じられて、姿を見ていられるならそれだけでもよかった。静かに落ち着ける場所ならどこでもいいとは思っていたが、だからといって何もこんなところでなくてもいいじゃないか。

 サイガ──。ちらりと相手の様子を窺い見たとき、リュウガはふと、彼の肩に大きな傷痕があるのに気付いた。サイガの背は他にもいくつかの痕を有していたが、思わず眉が寄るほどに痛ましく目立つそれは、リュウガの知識によれば刀傷のようだ。

(なんだあれ、……ひどい)

 千年の時を経てもなお語り継がれるほどに、彼らと皇魔との戦は熾烈なものだった。それなら、命に関わるほどの怪我を負ったことも一度や二度ではなかっただろう──そんなふうに思ったとき、不意にリュウガは強い焦燥を感じた。刹那よみがえる痛みと恐怖のフラッシュバックが、その傷への『興味』を強く惹きつける。

 この傷、どうしたんだ? そう問うべきところで、彼はもう手を伸ばしていた。

 ──ひたり。

「わっ!?」

 傷痕に手が触れた途端、サイガは虚をつかれたとばかりに驚いた声を上げた。

「なっ、なんだリュウガ、驚かすでないっ」

「あ、ご、ごめん」相手の反応の強さにリュウガこそ驚いて、彼は慌てて手を引っ込めて謝った。「その傷……どうしたのかなって」

「ああ……これか?」

 サイガは答えながら肩口に手を置く。傷痕は肩よりも少し下で背のほうに近いから、そうしても指先がわずかに届く程度だ。

「そうだな……もう、随分と前のことになる」

 そう言ってサイガが話したのは、彼がまだ聖龍王となって間もない頃の出来事だった。

 異変を調査するために出向いた深い森の奥地で、サイガは敵の罠にかかって毒矢を打ち込まれたのだ。仕込まれた毒は極めて強く、彼は、そのままでは一刻ほどで死に至ったであろう重症に陥る。

 ──そんなとき、その場で適切な処置をしてくれた男がいた。この傷は、そうして厄介な機構を持つ毒矢を摘出した際の切開傷なのだ……と。

「じゃあ」リュウガは言った。「サイガ、もしかしたらそこで死んでたかもしれなかったのか?」

「まあ、下手をすればそうなっておったろうな」やや自嘲の色を見せ、サイガは頷く。「まだ幼かったとはいえ、己を過信し不用心に進んでしまった結果だ。この傷には、本当に多くのことを教えられたよ」

「……もう一回、触ってもいい?」

「ああ」

 了承を得て、リュウガはもう一度、そっと彼の肩に手を置いた。

 指先でなぞった表面は、まるでゴムを突っ張らせて縫い合わせたようで、はっきり言って醜い。美しいサイガにはとても似つかわしくない、ひどいものだ。知らないうちに治ったのであろう小さな傷痕はまだ解るが、そんな命に関わるほどの大きな傷なら回復魔法で治すのがいいに決まっているのに、どうしてわざわざこんな痕を残したのか疑問に思う。

 サイガが『多くを学んだ』というように、自らのあやまちを形に残すことで戒めとしたならば解らないでもないが。

「痛かった?」

「まあな」

 痛くないはずがない。

「苦しかった?」

「ああ」

 苦しくないはずがない。

 リュウガは手のひらで傷を包み、祈るように目を閉じた。

「よかった。……生きてて」

 彼は心の底から感謝していた。サイガの怪我をその場で処置してくれたという、見知らぬ同行者に。サイガの命を繋ぎ、こうして自分に出会わせてくれた数奇極まりない運命に。

 だってその者がサイガを救ってくれたから今が在り、リュウガが在るのだ。仮にすべての存在が前提を必要としないものであったとしても、サイガの手に因らぬ世界に、サイガの血に因らず生まれ、サイガに出会わなかった自分の姿など今のリュウガには想像もできない。

 サイガが生きていてくれて、よかった──。さっきまで緊張しすぎてろくに直視できずにいたことも忘れて、リュウガは途方もない安堵とともに、とうに癒えた傷を慈しむ。

 ──ただ。

「リュウガ……」

 少年の静寂をどう感じるのか、サイガは何も聞かない。己に身を寄せるリュウガを、あるがままに受け止めているだけだ。

 でも、このとき。

(ああ……まただ)

 リュウガは、覚えのある感情が心の中で身をもたげるのを意識している。

 傷痕はサイガが生きている証で、彼の経験の一部だ。それは解る。けれどリュウガにはひとつ、身勝手極まりなく納得しがたい事実があった。

 その傷痕が、見知らぬ誰かの手でサイガに刻まれたものであるということだ。

 それを意識すると、リュウガは少し自分が不機嫌になるのを感じてしまう。

 この浴場へ入ってサイガを改めて見た時にもそうだった。彼の長い髪は浴槽に浸ってしまわぬよう、よくしなる小さな枝から削り出されたピンで丁寧にまとめられている。だが自分の身支度を自分でする癖のないサイガが、自分でこうもきちんと髪を結えるとは思えない。

 ならばこれをやったのは、おそらくあの侍女たちだ。

 本当ならそんなことを考えている暇も余裕もないはずなのに、彼女たちの興味本位な手がこの髪に触れたのだと思うと、それだけでもふつふつと不可解な感情がわいてくるのだった。

 たびたび彼は『この感情』に振り回されてきた。仲間に癇癪じみたことを言ってしまったり、どうしようもなく不機嫌になったり。それは決まってサイガに関係していて、──それは常に、そう……まるで自分の懐へ無遠慮に踏み込まれたような不快感を伴っている。

(なに考えてんだろ、オレ。自分の物を荒らされたみたいに考えて)リュウガはそんな自分を意識して、呆れた。(サイガは別に、オレのものってわけじゃ……)

 ──思考が、一瞬停まる。

 サイガが自分のものではない。その自覚が異様に虚しい。

(オレ……もしかして、サイガのこと──)

 その芽生えは弾かれるような衝撃ではなかった。

 ただ静かに、周囲のすべてが無音になる深淵の覚醒だ。

『リューガちゃーん、まだいるかしらァー?』

 と、外からアスタロットの声がした。

 どこか厳かな空気に黙りこくっていたサイガとリュウガは我にかえったように顔を上げ、曇りガラスで造られた脱衣所からの大扉を見やった。

「え、なにっ?」呼びかけられたリュウガが声を張って返事をする。

 白い湯気の向こうで、ガラス越しに彼女と思しき女の影が見えた。──と思った次の瞬間、ばたーんと前触れもなく扉が開く。

「ちょうど手が空いたから、せっかくだしアタシが背中流してあげちゃうワ!」

 歩くだけでその衝撃に揺れる豊満な裸体を隠そうともせず、上機嫌な笑顔でやってきたのは予想に外れぬアスタロット本人だ。

「いっ……!?」

 予想だにしない事態と展開に男二人は身を護るように後ずさり、そのまま絶句してしまったサイガとは対照的に、リュウガはほとんど反射で悲鳴を上げてしまっていた。

「きゃあ──────ッ!!?」

 それを聞いて尋常ならぬ事態を察し、駆けつけてきたベリアールをはじめとした者らは、のちに口を揃えてこう言った。

 あれはどちらが『女』か判らない光景だった、と。




                              To be contonued ...(2016/08/15)